真紅のドレスと、公爵家御用達の化粧水?
ロゼクォット公爵家からの招待状は、領内に住まう貴族の娘へ宛てられたものであった。
四人の子息たちに、良縁を見つけさせるためという名目で、独身の若い娘がいる家を対象に送られていた。
(しがない男爵家にまで、お声がかかるだなんて、公爵家のご子息様たちは、そんなにご結婚を急いでいらっしゃらないのかしら?)
フレッチェは身分違いのロマンスにはまったく興味がなかったが、今回の夜会には出てみたいと思い直した。
(良縁は恋愛に限られるものではないわよね。夜会での出会いや経験が、未来のわたしの糧になることを見据えて、出席するご令嬢たちとの歓談を楽しんでもいいはずよ)
いかな公爵家が花嫁を探しているとは言え、分をわきまえた者ならば、フレッチェのように社交の場として楽しむに留めるのが、家名のためというものだ。
しかし、マルルは違った。
自分こそが公爵令息に見初められる姫君なのだと信じてやまず、夜会の準備に精を出した。屋敷には毎日のように、宝石商や化粧師が呼び付けられ、マルルは日に日に華美になっていった。
自分の美しさを、よほど自慢したかったのだろう。
夜会を明日に控えた昼下がり――わざわさ裏庭に面した部屋まで来て、鮮やかな桃色のドレスをフレッチェに見せつけるほどだ。
「お義姉様はどうなさるの? ドレスもなくては、行けるはずもないでしょうけれど」
挑発には乗らず、フレッチェは納屋に被さった蔦を刈るのに尽力した。
するとそこへ、一人の老爺が訪ねてきた。
衣装箱を大切そうに抱えた彼は、ゆったりとした声音で話し出す。
「突然の訪問をお許しくださいませ。わたしは王都のオウル通りで仕立て屋を営んでいた者です。生前のシェバー男爵には、懇意にしていただき……」
「そうでございましたか。父は長年、王都で仕立てたという外套を、それは大切にしておりました。幼心に、父の凛々しい姿を数倍も引き立ててくれる、素晴らしい衣服だと感じていたのを思い出せます。あなたが仕立ててくださったのですね」
凛と背筋は正したまま、礼を尽くして頭を下げるフレッチェに、被服職人の老爺は感嘆の息を吐く。身なりから、彼女を使用人の一人だと思って声をかけたことを恥じた。
「ご夫妻によく似ていらっしゃる……あなたがフレッチェお嬢様ですね?」
「いかにも……わたくしがフレッチェでございますが?」
「あなたがお生まれになった折に、ご夫妻からご依頼を賜っていたのです。成人祝いに、こちらを仕立てるように――と」
老爺が衣装箱の蓋を開くと、深紅のドレスがお目見えした。
ただ鮮やかなばかりではない。深みのある真紅は、光を受けて宝石のように輝き、息を呑むほど美しい。
特に、腰周りに縫い付けられた装飾が、特別な装いの雰囲気を醸し出している。虹色に光沢を放つそれは真珠やビジューと似ているが、趣が違って目を引いた。
腰から下へ左右非対称に流れるドレープが生む影もまた、生地の上質さを際立てる。
これは両親から愛娘への、掛け値のない愛を込めた贈り物に違いなかった。
「……お父様……お母様……」
ドレスを抱きしめると、両親の腕に抱かれた温もりが蘇って、フレッチェは涙が止まらなかった。
※※※
仕立て屋の老爺が去ると、入れ替わりに血相を変えたマルルが現れた。
ドレスを見る目がぎらぎらと光る。嫌な予感に、フレッチェは身を震わせた。
「まあ、素敵! でも、お義姉様には少し派手じゃなくて?」
「着てみなければわからないわ」
「そう! なら合わせてみましょうよ。さあ、早速着て見せて!」
「こんなところで?」
人目につきにくいとは言え、屋外で着替えをするなんて非常識だ。そう訴えるフレッチェを、マルルは冷たい目で睨み返す。
これ以上は面倒だと、フレッチェは諦めて、エプロンだけ外した上にドレスの袖を通した。
すると、マルルがわざとらしく吹き出す。
「信じられない、こんなに似合わないなんてことがある!? 全然サイズが合っていないじゃない! 特に胸なんて、服の上から着てもこんなに隙間が空いている!」
ドレスとのゆとりに、マルルは無遠慮に指を突っ込んできた。
フレッチェは恥ずかしいのと、非常識な妹に憤りを覚え、唇を噛み締める。
胸に限った話ではない。彼女の身体は空腹に削がれて、同じ年頃の娘より肉付きが悪いのだ。
彼女の健やかな成長を願った男爵夫妻が、こんな未来を想像するはずもなかっただろう。一般的な女性用の型紙で仕立てられたドレスは、フレッチェには大きすぎたのだった。
「今から仕立て直すのは無理ね。せっかくのドレスを、納屋で眠らせたらもったいないわ」
じりじりと迫る強欲な手から、どうにか逃げようとしたフレッチェだが、最後には奪われてしまった。
「ああ、やっぱり! わたしのほうが、よく似合う! お義姉様もそう思うでしょう?」
ドレスを合わせ、マルルは満足げにフレッチェを見下した。
***
これまでの理不尽には、どうにか耐えてこられたが、もう我慢がならなかった。
フレッチェはたまらず走り出す。
屋敷の裏手から山道を抜けて麓まで下りると、見渡す限り、青々とした牧草畑が広がっている。近くには小屋があり、フレッチェの手は吸い込まれるように扉を叩いた。
ややあって、よく日焼けした中年の女が顔を覗かせた。彼女は驚きながらも、胸の底に喜びを湧き上がらせて、フレッチェを迎え入れる。
「これは……フレッチェお嬢様じゃあございませんか! まあまあ、どうしたんです。可愛らしいお顔を涙で濡らして……あの女狐たちの仕業ですか」
「いいの。心に入れてはいけない醜い思いを、洗い流しただけ。わたしは平気よ。リーンも元気そうでよかった」
リーンは男爵家の元使用人だ。今は実家の牧草農場で働いている。
いつでも会えるところにいるのは知っていたが、もし継母たちに露見すれば、リーンにまで迷惑をかけてしまうと、こうして会いにまで来たのは初めてだ。
「突然で申し訳ないのだけれど、お湯をもらえないかしら?」
「ええ、もちろんですとも。少々お待ちくださいね」
「ああ、新しく沸かしたりしなくていいのよ、リーン。薪だって安くはないのだから……あの茹でこぼしをいただける?」
大きな釜には牧草を茹でた汁が、たっぷりと残っている。まだ、ほこほこと湯気が立ち、見ようによっては風呂桶のようだ。
「いけません! お嬢様にそんな、家畜と同等の扱いなど……」
「そんなことないわ。これは、大公様のお屋敷にも卸されている牧草を茹でたものなのでしょう?」
「ええ。なんでも、たいそう美食家な家畜がいらっしゃるとかで、
「素敵ね、最高級の美顔水だわ。せっかくなら、お坊ちゃまより、ヤギさんと仲良くなってみたいわ!」
しぶるリーンを説得して、たらいと桶を用意してもらったフレッチェは、惜しみなく頭から湯をかぶった。
裏庭でできるのは、せいぜい清拭くらいだ。こんなに贅沢に水を浴びるのは、何年振りのことか。
水に溶けた青く爽やかな香りが鼻をくすぐり、フレッチェの心まで洗い流した。
骨の浮いた背中を優しく擦りながら、リーンは涙ながらに訴える。
「お嬢様、もういっそ、ここで暮らしはしませんか? 暮らしは慎ましくございますが、あの屋敷に比べればずっといいはずです」
「それも素敵ね……だけど、今回ばかりはマルルにお灸を据えてやらないと、わたしの気も済まないの」
櫛を通した髪から、埃を含んだ水が滴る。根気強くけしくずると、フレッチェの髪はかつての輝きを取り戻した。
「美しく着飾るだけでは測れない、人間の器量があるということを、あの子にはわかってもらわないと――」
※※※
シェバー男爵の屋敷からロゼクォット公爵の城までは、馬車で半日ほどだ。
朝から念入りに支度を調えたマルルと、付き添いのアイリーンは、昼前には馬車に乗り込んだ。そこにフレッチェの姿はない。
「――お義姉様、お部屋にいらっしゃらなかったわ。恥をかく前に逃げ出したんでしょうね」
手鏡を覗き込んで、マルルは笑い含みに言う。身に纏った真紅のドレスに引けを取らぬ、真っ赤な唇が吊り上がった。
アイリーンも同調して嗤う。
「いなくて結構! フレッチェがいたら、シェバー家の恥だわ。それに比べて、マルルの出立ちのなんと眩いこと。今夜はあなたが、我が家の顔よ。胸を張って、ご子息に気に入られておいで」
「ええ、お母様!」
公爵家へと車輪が唸る。マルルの胸の鼓動も、期待に大きく跳ね上がっていた。
公爵家の麗しい令息に見初められる――。そんな幻想を、彼女はもう手中にしたつもりでいる。
しかし、公爵家の城門前に辿り着くや、彼女の笑みは凍りついた。
門前は夜会へ向かう娘たちの、華やかな賑わいで満ちていた。
その一角に人だかりがあり、なぜかそこだけはしん……と静まり返っていた。中心には、一人の令嬢が立っている。
白に淡い桃色を溶かしたドレスの裾が夕映えに輝き、肩には纏った薄布は風を受けて、羽衣のようにたなびいた。
楚楚とした佇まいもさることながら、それ以上に人目を引いたのは、無造作に遊ばせてセットされた髪だ。
柔らかな春の陽射しを宿した金髪は、ただまばゆいばかりでなく、ドレスと同じ桃色を孕んで、淡く輝く。その温かみのある髪色は他に類を見ず、遠巻きに「何者か」「どこの美髪師の仕事か」と、潜めた声が飛んでいた。
マルルが息を呑むのと、フレッチェの目が彼女を捉えたのは同時だった。
歩き出したフレッチェは、居合わせた人々に失礼のないよう、静かに会釈をして人垣を越えていく。
彼女の立ち居振る舞いの清らかさには、名家の侍従たちも思わず息を呑んだ。その場にいた令嬢たちの中には、羨望にも似た眼差しを向ける者もいた。
やがて義妹たちのもとへ辿り着くと、フレッチェは優雅で丁寧なお辞儀をしてみせた。
「お待ちしておりました、お義母様、マルル。すでに城内へ案内は始まっております。参りましょう」
「お前……馬もないのに、どうやってここへ」
「それに、そのドレスはどうしたの!?」
継母たちは覚えていないだろう。彼女が、納屋へと追いやられた当時に着ていたものだ。
少しばかり丈は短くなったが、それでも着られてしまうことが自慢にはならず、フレッチェは微笑み返すに留めた。しかし心の中ではこっそりと、脇道に視線を送る。
城の貯蔵庫へと続く脇道には、荷を積んだ馬車やロバぞりが続き、車の陰からリーンが祈るように様子を眺めていた。
フレッチェとマルルが正装して並ぶと、いかに装いが華やかでも、うちから滲む気品に差が出た。
亡き男爵は、王都の格式を重んじて、フレッチェにも幼い頃から美しい所作を求めた。父亡き後は、社交界にお披露目する機会こそなかったが、教えを忘れることなく人知れず努力してきた。
屋敷の中で甘やかされ、上辺ばかりを飾り立てることに夢中になっているマルルとは、培ったものが違う。誰の目にも明らかだった。
「シェバー男爵家のご姉妹だそうよ」
「まぁ。ではあちらの方が、桃花蜜の姫?」
「花が枯れてしまったと、風の噂にお聞きしていたけれど、そんなことはなかったのね。なんて素敵な髪かしら」
否応なしに聞こえてくる義姉への称賛の声に、マルルは、真紅のドレスの裾を握りしめて悔しがった。
その横でフレッチェは微笑みを絶やさぬまま、小さく息を吐いた。
(これに懲りたら、内面を磨く努力をなさい。それが、シェバー家のため――どうかお父様の名を貶めないで)
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