虫ケラ扱いの男爵令嬢でしたが、牧草の茹で汁で髪を洗って運命が変わりました〜公爵令息とはじめる人生の調香〜
もちもちしっぽ
虫ケラ姫、永久就職先を見つける
虫ケラ姫
シェバー男爵家の一人娘、フレッチェが大きな目をくりくりと瞬かせると、父譲りの瞳が碧玉のように煌めき、見る者をうっとりとさせた。
母譲りの桃色がかった金髪は、少女の愛らしさをいっそう引き立てる。その髪の極めて美しいさまを讃え、領内では
両親に深い愛情を注がれ、健やかに育まれるフレッチェは、さぞ美しい姫君になるだろうと男爵家に仕える誰もが、成長を楽しみにしていた。
ところが――。
「まぁ、いやだ! 庭に物乞いが迷い込んでいるわ!」
「お母様ったら、よくご覧になって。あちらはフレッチェお義姉様よ。そんなことを言っては失礼だわ……まぁ、見間違えても仕方がない格好ですけれど!」
男爵家の屋敷を取り囲む石塀が、甲高い響きの嘲笑を閉じ込めて木霊する。
それを一身に浴びて小さくうずくまるのが、十八歳になったフレッチェだ。
野良着と大差ない、つぎ当てだらけの薄汚れた衣服に、骨っぽい貧相な体つき。こけた頬は、土埃でくすんでいる。
かつて、領民が桃花蜜色と讃えた髪の面影もない。まともに鋏を入れていないせいで、すっかりざんばらだ。
それに比べて、義妹のマルルの金髪の豊かなこと。太陽に向けてすっくと背を伸ばす、向日葵の花にも負けじと輝く。
肌ツヤのいいマルルが隣に立つと、同い年のフレッチェは何歳も老け込んで映った。
継母のシェバー夫人は眉を吊り上げ、きんきん声でなじる。
「あなたのようなみすぼらしい姿の者がいたら、庭の景観が汚れるじゃないの! さっさと自分の領分へお戻り!」
「申し訳ございません。お水をいただきたかったんです」
フレッチェが頭を下げる。逃げるように持ち上げた桶からは、井戸の水がこぼれた。
「用は済みましたので、もう立ち去ります。お目を汚して、申し訳ございませんでした」
「んまぁ、なんて娘かしら! 庭を濡らしておいて、言うことはそれだけなの!?」
「そう言わないで、お母様。せっかくお義姉様がこちらまで来てくださったのよ? おかげでこちらから出向く手間が省けて、よかったと思わなくちゃ」
マルルは、誇らしげに鼻を鳴らして、上等な厚紙でできた封筒を手渡した。
「ロゼクォット公爵家主催の夜会へ、お招きくださるそうよ」
「大公様が――? なぜわたしに?」
「いやぁね、お義姉様にだけ……なわけないじゃない! わたしにも届いているのよ」
母子は当日のドレスのことなどを、自慢するように嬉々として語り合う。フレッチェは適当なところで会釈すると、黙って踵を返した。
その頼りない背に、甲高い笑い声が浴びせられる。
「あら、わたしったら……お義姉様の気持ちも考えないで――お義姉様には、着ていくドレスもないのに……失礼してしまったわ」
「いいのよ、マルル。あの子は虫ケラですもの。大公様の城に足を踏み入れたりしたら、高貴な空気に当てられて、たちまち倒れてしまうことくらい知っているわ」
口汚く、卑しい罵りに腹が立っても、フレッチェは何も言い返さなかった。相手をすれば、自分も同じ場所に堕ちる。
心を静かに、ゆっくりと息を吐いて、フレッチェは屋敷の角を曲がった。
屋敷の裏手は山を背負い、藪が深い。そこにひっそりと建つ納屋が、フレッチェの住まいだ。
夏の盛りともなると、草木はあっという間に生い茂り、納屋の屋根まで覆い被さって、暗い影を落とした。
庭師は前庭にばかり手を入れるため、放置された裏庭には、虫や蛇が喜んで住まう。それがフレッチェが虫ケラと呼ばれてしまう所以であると同時に、継母たちをこの場所から遠ざける防護柵でもあった。
ラッパ型に花弁を綻ばせた背の高い花が、納屋の脇に垣を作る。その一輪を摘んで、フレッチェは香気を吸い込む。
「やっぱりタチバカマの花は香りが薄いわ。蜜もほとんどない」
萼をむしったところを、ちゅうっと口に含んでみたが、少し渋い汁が出てきただけだった。
「だけど葉っぱは厚みがあって、香りがいいの。茹でても揚げても、歯触りが良くておいしいのよね。今日は、あなたたちをいただきます」
大地の恵みに感謝して、神に祈りを捧げると、フレッチェはタチバカマを三本ほど刈り取った。
桶と一緒に抱えて、扉を押し開ける。湿った空気が頬を撫でた。
昼だというのに薄暗く、埃臭さが拭えない。
桜花蜜の姫とまで呼ばれたフレッチェが、こんな場所に追いやられたのは、母シェリーの死が発端であった。
※※※
シェリーは心臓を患い、若くしてこの世を去った。
物心つく前に母を亡くした娘を哀れに思ったシェバー男爵は、砂糖に蜂蜜をかけるかのごとく、フレッチェを可愛がった。
どこへ行くにも、男爵の足元には桜花蜜の姫が一緒――時には肩車で視察に訪れたこともある。
そんな折、シェバー男爵はある女性と知り合う。
さる子爵家が出の、アイリーンだ。彼女もまた、若くして夫を亡くし、女手一つで娘を育てていた。
娘同士の歳が同じだったのもあり、共感して惹かれ合うのは早かった。
シェリーの死から四年ののち、シェバー男爵はアイリーンを夫人に迎えた。
アイリーンは、フレッチェを実子のマルルと隔てなく可愛がった。フレッチェも、恋しかった母の温もりを与えられて、幸せだった。
数年後には待望の男児も生まれ、シェバー男爵家は仲の良い幸せな家庭として、領内の笑顔の中心を築いていた。
しかし、フレッチェが十二の年、すべてがひっくり返る――。
シェバー男爵が狩りの最中、不慮の落馬事故で命を落としたのだ。
男爵の死を境に、アイリーンは態度を一変させた。
彼女は手始めに、まだ言葉もおぼつかない息子を新たな男爵として立てた。そして自らが後見人として、シェバー家の実権を握ることに成功する。
フレッチェへの嘲りを露わにし始めたのも、同じ頃だ。
『お前は醜い。それに比べて、マルルのなんと愛らしいこと』
使用人たちがフレッチェを庇えば、たちまち夫人の逆鱗に触れた。
屋敷に仕えていた古くからの使用人たちは次々と解雇され、代わって彼女の私兵や従僕が出入りするようになる。そうしてシェバー男爵家に、フレッチェの味方はいなくなった。
食卓の席は奪われ、与えられる食事は冷えた残り物ばかり。空腹を紛らわすため、裏庭の果樹を摘み、花の蜜を吸うこともしばしばだった。
それを見た義妹が面白半分に笑いながら言ったのだ。
「お義姉様ったら、まるで虫みたい! 桜花蜜なんてたいそうなお名前よりも、虫ケラ姫がお似合いよ!」
それ以来、フレッチェは虫ケラ姫と陰で罵られ、屋敷に居場所を無くして、とうとう納屋に追いやられたのだった。
※※※
両親が遺してくれたすべてを、継母と義妹に奪われたフレッチェだが、一つだけ守り通したものがある。
窓辺に飾った一輪挿しの隣に、ちょこんとお座りした小瓶――これがフレッチェの宝物だ。
シェリーの形見の香水瓶で、蓋には紐が通せる穴があり、ペンダントヘッドにできようになっている。
中が空だったので、アイリーンたちには目をつけられずに済んだ。この香水瓶の価値を父から聞かされていたフレッチェは、心底ほっとしたものだ。
『これは、好きな香りを閉じ込めておける魔法の香水瓶なんだ』
『おまえが生まれたとき、シェリーは部屋に満ちていた香りを詰めたんだよ』
蓋を開けてひと嗅ぎすれば、温かで優しい香りが、フレッチェの胸の奥に染み渡った。春の日差しと、笑い声と、柔らかな手のぬくもりが蘇ってくるようだ。
『シェリーは、おまえにこう言い残した。いつか、あなただけの幸せを感じる香りを見つけ、たくさんたくさん瓶に詰めなさい――とね』
その言葉が、フレッチェの心の支えだ。
自分の幸せはどんな香りをしているのだろうと、窓の外を眺めて夢想する。
「この家から出ない限り、新しい香りも見つかりっこないわね」
やれやれと寝台に腰を下ろした拍子に、腰帯に挟んだまま忘れていた封筒が、するりと滑り落ちて床を撫でた。
ロゼクォット公爵家の紋章が、薄闇の中でも気品を放って輝く。
さっきまで興味なんてなかったのに、フレッチェは香水瓶の蓋を開ける時と同じように、胸を高鳴らせながら封を切った。
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