ACT.2
放課後、陽が傾き、校舎のガラス窓が橙色に染まる。
あやかはひとり、保健室の前で立ち止まっていた。
(もしかしたら、先生に相談すれば……元に戻るヒントがあるかも)
ドアをノックし、開けると――
そこにいたのは保健の先生・中園まほ。
彼女もまた、ぴったりとした灰色の全身タイツに包まれていた。
白衣の下から、首までぴたりと伸びる布。
医療マスクすらなく、顔だけがふわりと浮かんで見える不思議な光景。
「あら、あやかちゃん? 熱でもある?」
「……先生、この世界……前は、こんなんじゃなかった気がするんです」
「“こんなん”って、どういう意味かしら?」
中園先生の笑顔は優しい。でも、その目の奥に冷たい膜のようなものが張っていた。
「全身タイツ……私、昨日までは普通の制服だったはずなんです。スカートにシャツに……ソックスで……」
先生は静かに笑いながら、カルテを手に取った。
「……たまにそういう“記憶のねじれ”が起きることがあるの。初潮の頃とか、環境の変化で」
「……っ、でも」
「大丈夫よ。記憶は、少しずつ正しく整っていくから」
それは慰めではなく、“正しい側に戻れ”という警告のように聞こえた。
逃げるように保健室を出て、靴箱で上履きを脱いだとき――
「あやか?」
振り向くと、姉のあすかが立っていた。高等部三年、家でも学校でも完璧主義の優等生。
「どうしたの、顔、真っ青よ?」
「姉さん……私、記憶が……」
あすかは周囲を見渡し、あやかを校門の脇へ連れ出した。
そして、低い声で言った。
「……覚えてるのね、“前の世界”を」
「……っ!?」
「私は……中一の夏に忘れた。最初はすごく怖くて、毎晩泣いた。でも……誰にも信じてもらえなかった」
あやかの心臓が跳ね上がった。
「じゃあ……本当に、私がおかしいんじゃないって……」
「でも気をつけて。あの“国家繊維局”は、完全に記憶が戻らない子や……タイツとの適合率が低い子を、“矯正”するために連れていく」
「矯正って……何されるの?」
「私も知らない。戻ってきた子、見たことないもの」
その瞬間、学校のスピーカーが一斉に鳴った。
「明日、全学年を対象にしたタイツ適合検査が行われます。各自、事前準備を怠らぬように」
街に響く人工音声の声が、タイツ越しの肌を震わせるようだった。
――適合検査。それは、この“世界の仕組み”が明確に牙をむく日。
姉の視線が強くなる。
「逃げられない。でも、諦めないで」
あやかは深く息を吸った。
タイツが胸の上で伸びる感触に、今はもう慣れつつある――それが余計に怖かった。
家の玄関をくぐった瞬間、あやかの身体はほっと緩んだ。
だが、それでもタイツは離れてくれない。
首元から足先までぴったりと密着したまま。脱げるはずもない。まるで呼吸器官の一部みたいに。
「おかえりー」
キッチンから、母の声。
彼女はエプロンの下、桃色の全身タイツ姿のまま鍋をかき混ぜている。タイツの表面に湯気がしっとりと水滴をつけ、艶やかに濡れていた。
「手洗ってご飯にしてねー」
「……うん」
洗面所の鏡に映る自分の姿――制服タイツのまま、顔だけがぽつんと浮かんでいる。
ハンドソープを出すたび、手袋のような布の上に泡が広がる。素肌に触れているはずなのに、なぜか違和感がない。
リビングには妹のつぐみが正座してアニメを観ていた。
全身ぴったりの薄紫タイツ姿、ランドセルだけがタイツの上から浮いて見える。
「あ、お姉ちゃんおかえりー!」
「ただいま……そのままテレビ観るの?」
「えへへ、タイツってあったかいからさ、こたついらないもん」
ソファには父。
黒いスーツのズボンを脱ぎ、ワイシャツの下にはタイツがぴたりと貼りついた脚。
足を組んだ姿が妙に無防備で、けれど家族は誰も気にしない。
「今日、学校はどうだった?」
「……うん、普通」
その言葉に、小さな嘘が滲む。
家族の誰もがこの世界に順応している。
タイツを疑うことすらない。
まるで、服ではなく“皮膚”のように扱っている。
夕飯の時間。
テーブルにはハンバーグとサラダ。
食器の音、肉を切るナイフ、タイツの布が椅子に擦れる小さな音。
(みんな、タイツのままなのに……食事のとき、何も言わない……)
姉のあすかが言う。
「明日の検査、寝る前にタイツオイル塗っといた方がいいよ」
「オイル……って、なに?」
「タイツと体の親和性が上がるの。ほら、去年から配布されてるでしょ」
父が補足する。
「生地との調和を促すやつだ。昔は乾燥肌の子がよく不適合になってたんだよ」
「……そうなんだ」
まるで呼吸をするように“タイツとの一体化”が語られる。
その中心にいるのは、家族。血のつながった、自分がもっとも信じていた人々。
けれど、彼らの言葉が、なぜか機械的に思えた。
入浴の時間。
浴室には家族共用のタイツ洗浄シャワーがある。
湯をかければ、生地の内部まで泡が浸透し、汚れを浮かせるという。
(これが普通……? タイツのまま、お風呂に入るのが……)
湯気の中、鏡が曇る。
手で拭うと、タイツに包まれた自分の身体が現れた。
胸も、腰も、太ももも、ぴたりと布に覆われたまま。
けれどその姿が――
(前より、“自然”に見える……)
タイツを“着ている”という感覚が薄れていく。
まるで、初めからそうだったかのように。
夜の静寂。ベッドに横になる。
毛布の下で、全身タイツのまま眠る家族の気配。
呼吸が布越しに微かに聞こえる。
妹の寝息、父のいびき、母の寝返り。
あやかは目を閉じた。
布と皮膚の境目が、ゆっくりと溶けていく。
――でも、まだ完全には染まっていない。
その最後の一線を守るように、彼女は胸の上に手を置いた。
「……絶対に、忘れないから」
それは小さな誓い。
“普通”に飲まれそうな世界で、ひとりだけ逆らう者の祈りだった。
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