ACT.1
家を出ると、通学路が朝の光に包まれていた。
街中の誰もが、顔以外すべてタイツに包まれて歩いている。
それが当然という空気の中、あやかだけが息を詰めていた。
歩くたびに布が伸び、太ももから膝にかけて微かな圧力が伝わる。
風が吹けば、その布の表面に細かい波紋が走る。
「……これ、体温で生地が変化してる?」
自分の声は小さく、タイツ越しの首筋から籠もった響きが返る。
すれ違う男子高校生も、教師らしき女性も、誰一人として違和感を覚えていない。
灰色の街並みの中で、様々な色のタイツが流れていく。
赤、青、銀、そして学校指定の濃紺。
「おはよーあやか!」
振り向くと、親友の小早川みなが手を振っていた。
顔だけが露出した彼女は、いつも通りの笑顔だ。
だが全身は光沢のある黒タイツに包まれ、髪だけがさらさらと風に舞っている。
「あ、みな……それ、いつから……」
「なにが?」
「その……タイツ、全部……」
みなは小首を傾げ、あやかの胸のあたりを指差した。
「どうしたのあやか、寝ぼけてるの? その制服タイツ、似合ってるじゃん。新調した?」
その一言で、あやかの背中を汗が伝った。
みなの瞳には、何の疑問もない。
この世界では、全身タイツが制服であり、常識。
交差点の信号待ち。
隣には別の学校の生徒たち。
全員、色違いの全身タイツにブレザー。
自転車をこぐ生徒のタイツ越しに、筋肉の動きがなめらかに見える。
誰も恥ずかしがらない。誰も見惚れない。
だが、あやかの脳裏には昨日の自分が焼きついていた――
普通の制服、普通の靴下、普通の肌。
「昨日まで……タイツなんて、こんなじゃなかったのに……」
思わずつぶやく。
「ん? なに?」と、みなが首を傾げる。
校門が見えてきた。
「私立常葉女子高等学校」
白いタイツに包まれた足が並び、門をくぐっていく。
体育教師らしき女性が、生徒のタイツの張り具合をチェックしていた。
「ストッキングラインが乱れてるわよー、空気圧が下がるから気をつけて!」
――空気圧?
あやかは息を呑む。
タイツに“空気圧”という言葉。
それは、単なる服飾ではない何かを示していた。
ホームルームが始まる。
教室を満たすのは、無数の色のタイツが擦れ合う小さな音。
椅子の上で伸び縮みする布の摩擦が、まるで新しい鼓動のようだった。
担任が入ってくる。
彼女のタイツは紫で、目だけがきらりと光る。
「おはようございます、みなさん。今日もよくフィットしてますね」
その声に、生徒全員が立ち上がり、声をそろえた。
「おはようございます!」
天井の蛍光灯が反射し、教室全体が微かに艶めく。
それはまるで、布でできた生命体の群れのようだった。
――私は、夢を見てるんだろうか。
あやかの指先が、机の上でタイツ越しに震えた。
チャイムが鳴る。
「次は保健体育よー。グラウンドじゃなくて今日は室内で確認授業だから、みんな移動してー」
担任の声が響く。
体育館の中は、布に包まれた生徒たちの呼吸でほんのり暖かい。
「ねぇ、あやか。タイツチェック、どうやるか覚えてる?」
みなが笑いながら言う。
「え、タイツ……チェック?」
「忘れたの? 1年の最初にやるじゃん。“健康維持と衛生確認”。」
教壇の前には、紫の全身タイツを着た体育教師・香坂美織先生が立っていた。
そのタイツはわずかに光沢を帯び、動くたびに関節のラインが美しく浮かぶ。
「全員、前に立ってー。今日は“圧調整”と“通気指数”の確認をします」
圧調整? 通気指数?
あやかの頭は追いつかない。
それでも他の生徒たちは慣れた動きで整列した。
香坂先生が生徒ひとりひとりの腕や足に小さなスキャナーを当てる。
ピッ、ピッ――という電子音。
「はい、良好。繊維電位、37度安定。」「次の子もOK。」
あやかの番になる。
スキャナーが腕に当たる。
ピッ……ピピッ。
先生の眉がわずかに動いた。
「少し密着圧が高いわね。昨日、メンテした?」
「め、メンテ……ですか?」
「だめよ、圧力が高いと皮膚が呼吸できなくなる。帰ったらタイツ液で一晩馴染ませて」
「……はい」
――タイツ液? 呼吸? 一体何の話をしているの。
列の後ろで、みなが小声で囁いた。
「新品だと馴染むまで時間かかるんだよね。私も最初はピーピー鳴らされたよ」
「……それ、普通なの?」
「普通だよ。だってタイツって、体の一部でしょ?」
その言葉が、刃のようにあやかの心を切った。
授業後、全員が体育館の鏡の前に並ぶ。
「今日のテーマは“姿勢とタイツの一体化”です」
香坂先生が前に出る。
「鏡に映る自分をよく見て。肩が上がってる子、布が歪んでる証拠。呼吸を合わせて――体と布の境界を消すように」
全員が深呼吸した。
タイツの表面が呼吸と共にわずかに膨らみ、波のように揺れる。
その音が静寂の体育館に広がる。
――ざわ……ざわ……。
あやかも同じように息を吸う。
布が胸の上で伸び、心臓の鼓動を包み込む。
温かい。まるでタイツが体を支えてくれているようだった。
けれど、心の奥では確かな違和感がうずいていた。
“昨日まで、こんなの着てなかったはずなのに……”
授業が終わり、教室に戻る途中、みなが言う。
「来週、タイツ適合検査あるんだって。外部機関の人が来るらしいよ」
「……外部機関?」
「うん。国家繊維局。あやか、まさか知らないの?」
「……」
彼女の笑顔の裏に、ぞくりと冷たいものが走った。
――この世界の“常識”を作っている何かがある。
それを、タイツ適合検査という名の下に、国が見張っている。
あやかは窓の外に目をやった。
グラウンドを走る上級生たちのタイツが、光を受けてまるで金属のように輝いていた。
その光の中で、ひとつの想いが芽生える。
「……この世界、絶対に変だ」
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