12.────来訪
その異様な光景に、直也が叫ぶように声を上げた。
「澪ッ!!」
彼が駆け寄ろうとした、その時――
杭の先端がカチリと音を立てて開き、フック状に展開する。
まるで獲物を逃がさぬ罠のように、澪の身体をしっかりと固定した。
その痛みに一瞬、澪の顔が苦痛に歪む。
肉を裂いた感覚が、彼女の神経を焼くように走る。
次第に顔から血の気が引き、唇は青白くなっていく。
目の焦点は定まらず、瞳の光が静かに消えていく。
抵抗の意思は、痛みに溶けるように失われた。
杭の後部には、黒く鈍い光を放つチェーンが繋がっている。
そのチェーンは、地面を這うように伸び、森の奥――祠の方へと続いていた。
次の瞬間、ぐいっと強い力が加わり、澪の身体が後方へと激しく引かれた。
彼女の足が地面を滑り、抵抗する間もなく、森の闇へと引きずり込まれていく。
その動きは、あまりにも突然で、あまりにも強引だった。
「澪ッ! 澪ッ! 掴め、誰か掴めッ!」
蓮司が叫びながら手を伸ばす。
だが、彼の声も腕も、澪には届かなかった。
澪の指先が、空を掻くように伸びる。
その瞳は虚ろに揺れながらも、微かに助けを求めていた。
澪の身体は、大蛇が森をうねるように、生い茂る草を押し分けながら奥へと飲み込まれていく。 ガサガサと草を揺らす音が遠ざかり、やがてその姿は森の奥に消えた。
地面には、澪が引きずられた跡と、赤黒く滲んだ血の痕だけが残されていた。
澪の姿が森の奥に完全に消えた。
蓮司は反射的に、その後を追おうと一歩踏み出す。
その背後から真結の声が鋭く響いた。
「行っちゃだめ!」
その叫びには、ただの恐怖ではない――確信に近い警告が込められていた。
蓮司は振り返り、声を震わせて叫ぶ。
「見捨てろっていうのかよ!」
その言葉の重さは、真結にも痛いほど伝わっていた。
澪を見捨てるという冷たい選択。
それがどれほど残酷か、誰よりも真結が理解していた。
だが、それでも――森の中へ入らせるわけにはいかなかった。
もっと恐ろしい“何か”が、確実にそこにある。
蓮司は一瞬、足を止める。
真結の瞳に宿る怯えと切実な決意が、彼の心を揺らす。
だが、澪の虚ろな瞳と伸ばした指先が脳裏に焼き付き、彼の決意を再び燃え上がらせた。
「……俺は行く」
そう呟き、踵を返して森へ踏み込もうとした――その瞬間。
蓮司の腕が、突然、強い力で掴まれた。
そのまま引き倒され、彼の身体は地面に叩きつけられる。
乾いたアスファルトに背中を打ちつけ、息を呑むような衝撃が走る。
痛む背中を抑えながら顔を上げると、そこには――一人の男が立っていた。
「……誰?」
直也は声を潜め、困惑したように問いかける。
だが、男はその問いに一切反応せず、ただ黙って立っていた。
夕暮れの光に照らされたその男は、日焼けした肌に無精ひげを蓄え、精悍な顔つきをしていた。
左の頬には斜めに走る古傷が一本。それだけで、ただ者ではないと誰もが直感する。
夏には不釣り合いな黒いコートを羽織り、手には猟銃を握っていた。
銃口は下げられていたが、指はしっかりとトリガーにかかっている。
男の視線は、森の闇の奥――何かを探しているのではない。
すでに知っている者の目だった。
しばらくの沈黙の後、男は周囲に攻撃の気配がないことを悟ると、低く短く言った。
「……ついてこい」
それは、今来た道を引き返すことを意味していた。
蓮司は思わず声を上げた。
「待てよ! 車がそこにあるんだぜ!」
指差す先には、森の入口に停めた車が見える。
この村、絶望、闇から――脱出する唯一の手段、それがあの車だった。
男はちらりと車を見た。
その目には、警戒と、確信に近い疑念が浮かんでいる。
そして、ぼそりと呟くように言った。
「……罠、なんだよ」
男の言葉に、澪の姿が脳裏に浮かぶ。
貫いた杭、あれは確かに狙っていた。──獲物がかかる瞬間を。
三人は黙って男の後に続き、歩き出す。
神経をすり減らしながら進んだ、あの道を――今、引き返していく。
納得できるはずもない。
だが、他に選択肢がないことも、事実だった。
車が徐々に視界から遠ざかっていく。
希望だと思っていたものが、まるで幻だったかのように消えていく──
「……なぁ、あれ、ホントに駄目なのか?」
蓮司が振り返りながら、惜しそうに呟いた。
その声には、微かな疑念と、未練、そして諦めが混ざっていた。
男は前を見たまま、ぼそりと呟いた。
「……なら戻って試してみるか?」
蓮司は軽く舌打ちし、何も言わずに男の後に続いた。
真結は歩きながら、そっと目元に手を添える。
「……澪」
その名を口にした瞬間、頬に一筋の涙が静かに流れた。
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