11.────逃路

「……なぁ、直也とも話したんだけどよ。村を出ようぜ、暗くならないうちに」


蓮司の声が、小屋の重たい空気を切り裂いた。

誰もがその言葉に反応しながらも、すぐには答えられなかった。

このまま留まり続ければ、何かに押し潰されてしまう。

打開するには、進むしかない。 それでも、誰もが口を閉ざしたままだった。


わずかな沈黙の後、澪がぽつりと呟いた。

「……でも、またあの道…通るんだよね?」


震える唇から漏れたその言葉は、誰もが心の奥で考えていたことだった。

ここから出るには、あの一本道を通り、車まで戻らなければならない。

木々に囲まれたこの村では、それが唯一の道。


──そして、最も危険な道だった。


あの息が詰まり、背中に張り付く冷たい闇。

何かが潜んでいるような、得体の知れない気配。

再びそこへ踏み込んだ時、自分たちは耐えられるのだろうか。

その不安が、誰の胸にも重くのしかかっていた。


沈黙を無理矢理に破るように、蓮司が壁を手のひらで叩いた。

「ここにいたって死ぬだけなんだよ!…だったら、覚悟決めるしかねぇだろ!」


乾いた音が小屋の中に響き渡り、空気が震えた。

蓮司の声には、この不条理な状況への抵抗の意思が、強く込められていた。


真結が静かに立ち上がった。

「……行こう」

小さく、静かな声だった。けれどそれは、確かに皆の胸に届いた。


澪が顔を上げる。泣きはらした目は赤く染まり、まぶたは腫れていた。

真結の震える瞳の奥に、かすかな覚悟が灯っているのが見えた。

それは頼りなくも、確かに前を向こうとする意志だった。


真結の手をそっと握り、ゆっくりと立ち上がる。

誰も言葉を発さず、荷物を手に取り、そっと立ち上がった。

少しでも迷いが生まれる前に。恐怖が再び足をすくませる前に。


直也が健人の荷物の前で動きを止めていると、蓮司が無言でそれを受け取った。

「俺が持つ」

短く言い、左肩に背負う。 その背中には、覚悟がにじんでいた。


扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。

軋む音とともに、生ぬるい空気が小屋の中へ流れ込んだ。

四人は、互いの気配を確かめながら、外へと一歩を踏み出した。


日差しは弱まり、風は止んでいる。

周囲には、不気味なほどの静けさが広がっていた。

空は、沈み込む直前のような鈍い色をしている。


それぞれの手には、廃屋の中で見つけた武器が握られていた。

刃の欠けた包丁。錆びた火かき棒。折れた木の棒。

おおよそ、武器とは呼べない頼りないものだった。

それでも、指先に力を込めて何かを握りしめていないと、心が崩れてしまいそうだった。


夏の空気が肌に纏わりつく。四人は距離を保ちながら歩き出す。

蓮司を先頭に、ゆっくりと村の入り口へと向かっていった。

廃屋の横を通り過ぎる。

昼間と同じはずの光景が、別世界のように思えた。


すぐに村の入り口にたどり着く。ここからが本番だった。

一本道を抜け、車のある場所まで辿り着かなくてはならない。

左右の木々は、昼間よりも濃く黒く染まり、道の上に覗く細い空は陽を遮っていた。


薄暗く、不気味な静けさが辺りを包み、空気さえも重く感じられる。

誰も言葉を発さず、歩みを進めた。


数十メートルほど進んだとき、蓮司が怪訝そうな顔をして、直也の腕を肘でつついた。

「おかしくねぇか?」

直也は小さく頷く。

「……うん」


真結が、不安げに声を潜める。

「どうしたの?」

蓮司は足を止め、前方を見据えながら言った。


「……ジジイの死体がない」


その言葉に、澪と真結も前方へと視線を向ける。

背中に、ぞくりと冷たいものが走った。


「ほら、薄暗くなってるし…まだ先かも。」

真結が気休めのように言うが、声は震えていた。

「いや、俺ら昼間、入り口にいたろ? その時見えてたんだ。はっきりとじゃねぇけど。」

蓮司の声には、確かな違和感が滲んでいた。


それでも、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

再び歩みを進める。ゆっくりと、慎重に、足元に気を配りながら。


「あ…」

地面には、ぽつりぽつりと赤い点が滲んでいた。

まるで道しるべのように続いた先には、乾いた血の跡が静かに残っている。

そして──頭部が転がっていたはずの場所には、何もなかった。


澪が唇を震わせながら言った。

「誰か…持ってったの?」

その言葉に、誰も返すことができなかった。

答えを口にするには、あまりにも現実離れしていた。


沈みゆく太陽が、木々の間に長く伸びる影を落とす。

飲み込まれそうな闇の気配が、より濃くなっていく。


「行くぞ。」蓮司が言った。

その言葉は、自分自身を奮い立たせるためのものだった。


──おそらく、一本道の半分を過ぎた頃だった。

緩やかなカーブの先に、車が見えてきた。


真結が指をさし、小さく呟く。

「あった…」


その声に、誰もが駆け出したくなる衝動を覚えた。

だが、それを抑え込み、慎重に、慎重に歩みを続けた。

車は、来た時と変わらぬ姿で、傾いた地面に沈み、

泥をかぶったまま、静かに佇んでいる。


四人の間に、ほっとした空気が静かに広がった。

老人の死体が消えていたことには引っ掛かりを覚えたが、

それでも、他に異変は起こらず、四人は思いのほかすんなりと車へ辿り着いた。


「……んだよ、楽勝じゃん。」

蓮司が肩の痛みを堪えながら、強がるように言う。


「よかった……本当に、よかった……」

直也は静かに息を吐き、手にしていた火かき棒を下ろす。

澪の目には、涙が浮かんでいる。

これで帰れる。この村から、ようやく出ることができるのだ。


じわり、じわりと進む。車まで、あと数十メートル。

鍵を開けてすぐに乗り込み、脱出する。

それだけで十分だった。

その先のことは、まだ誰の心にも浮かんでいなかった。

ただ、ここから離れられる──それだけが希望だった。


あと30メートル……20メートル……10メートル。

全員の張り詰めていた緊張が、僅かに緩んだ。


澪の握りしめていた包丁が指をするりと抜け、滑り落ちた。

指先の力が抜けたのか、それとも安堵が一瞬、身体の感覚を奪ったのか。

カラン、と乾いた金属音が地面に響く。


帰ろう。


静寂を裂くように──

鋭く空気を刺す音が、森の奥から突如として響いた。


澪が反応する間もなく──

背後から飛来した金属の杭のようなものが、容赦なく胸を貫く。

彼女の身体がびくりと震え、その場に釘付けになったように、動きを失う。

口元から、赤い液体が一筋、静かにこぼれ落ちた。

喉の奥で何かが引っかかるような、かすれた声が漏れた。


「……なに……これ……」

血はぽたぽたと地面に滴り、アスファルトに濃い染みを広げていく。

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