今宵、はるかを刻む。

天照うた @詩だった人

I love you じゃ足りない。


「私、結婚する。あんたとは別の男と」

「……は」


 いつも通りに俺の部屋に来てそういった晴香はるかに俺は目を剥いた。机に手をついてがばっと起き上がる。大きな音がした。椅子が倒れたらしい。春香がため息をついてそれを一瞥する。でも、そんなことを気にする余裕なんてなかった。

 だって、春香は俺の彼女だ、間違いない。どこからどう話がつながるのか?

 そんな俺に目線を合わせず、窓から見える夜空を見て彼女はつぶやく。


「結婚式、ちょうど三か月後にする。見に来る?」

「……いくわけねぇだろ」


 「それよりも」と言葉を続けようとする俺に春香は皮肉らしい笑みを浮かべた。赤い唇の吊り上がった、今までで一番怖い笑み。


「あの人のほうが、あんたよりも私のことを大事にしてくれるの。小説バカのあんたの隣に、私がいつまでもいると思った?」

「言っていいこと、悪いことがあるだろ」

「じゃあ私が何も言わずに消えればよかったっていうの?」

「そっちのほうがいいよ」

「なに、その態度。私のこと大好きだったでしょ?」

「お前がおかしいからだろ」

「ほら、そーやってまた人のせいにする。あんたなんか……!」

「もういいよ、二度と来んな!!」


 近くにあった原稿用紙をありったけ投げつける。無数の原稿用紙がふわっと部屋に舞って、彼女へと届かずに落ちる。虫を見るような目で俺を睨みつけた後、春香は踵を返して出て行った。

 紙で埋め尽くされた部屋に俺だけが残る。窓に薄く映るのは、瘦せこけた一人の男。見るからに、無惨だ。

 なんでこうなってしまったのだろう、こんな、ことに。


◇◆◇◆◇◆


 俺たちはごく普通の出会いをした。大学のサークルで飲み会の席が隣になって、そこからは成り行きだった。

 文学部の俺は小説を書くのが趣味で、小説投稿をしていたサイトではフォロワーも1000人を超えていた。きっと、調子に乗っていたのだと思う。駄目だったんだよな、それが。

 彼女もそんな俺のことを好ましく思っていた……と思う。今となっては何の確証もできないが。


『大事にしてくれる』

『小説バカ』

『あんたなんか』


「……バカバカしい!」



 頭に浮かんでくるのは春香が投げかけた言葉たちだけだった。端くれながら小説家なはずの自分の身が恨めしい。

 部屋の隅に投げ置かれていたパソコンを手に取って、メモを開いた。

 初めてデジタルで書いた小説、……いや、『書こうとしていた』小説か。俺はもう、こんなもの書く気になんてなれない。書く理由も、書く相手もいない。

 天井を見て、ふと自然に出てきそうになった言葉を慌てて封じ込めた。

 死にたいなんて幻想で、ただの意見の押し付けで。そんなことわかっていた。数々の悲恋を描いた。小説の中で、様々な喪失を描いた。別れるカップルをいくつ描いたことだろう。難病の末に死に至る女を何人描いたことだろう。

 小説で描いたものとはまったく程遠い感情だった。何とも言えない喪失感、ぽっかりと心の中に空いた穴。その穴の内側から出てくるのは、禍々しいマグマ。すべてを焼き尽くそうとするような勢いで燃え広がったその熱は、俺の身体なんてとうに覆って焼き尽くしてしまっていた。人間、死んだら骨だけ。もっと言うなら灰だけだ。

 ああ、なんだか、湧いてくる。小説のネタじゃない。なにか、人間の奥底にある“欲”のようなもの。

 書け、と俺の中の何かが言う。吸い寄せられるように、パソコンを手に取る。

 デジタルで書くのは苦手だった。デジタルで書いた文章には、俺が書いたようには思えないようなが宿っていたからだ。原稿用紙で書き上げた小説のほうが何倍も受けが良かった。そんな俺がデジタルで書き始めたのは、いつもと違うほのぼのとした小説。小説家である『俺』とその彼女である『春香』が幸せになる、物語……。

 これを書き上げたら、プロポーズしようと思っていた。彼女のことが、好きだった。どうしようもなく。

 でも、こんなことになるだなんて。

 ……それならいっそ、小説の中で不幸にしてやる。

 春香も、俺も、全員不幸にしてやる。

 そんな小説を書いたら、死のう。

 遺書なんて残さなくていい。生きる意味なんてない。今、生きようと思えない。

 そんなつまらないことで、ってきっと人は言う。だけど、俺にとって小説は何にも代えがたい、命よりも大事なものだ。それを否定されるなら、消えてしまいたい。死ななくてもいい。世界から消えて、誰にも知られずにただ一人で小説が書きたい。

 小説家の失踪なら、なにかの話が必要だ。ラブレターでも、遺書でも、なんでも。


 俺は、思い付きでこんなことを小説アカに投稿した。


『月が照らすあなたの影に、私は刃を想う』


 投稿ボタンを押して、ログアウト。もうここに帰ってくる気はなかった。

 原稿用紙でよかった。それだけが、俺の心を素直に表してくれるような気がした。

 鉛筆を削る。木屑が積もっていく。

 夜空に瞬く星なんて、見えるはずもなかった。


◇◆◇◆◇◆


――春香side


「……げほっ、こほ」


 彼の部屋を出た瞬間に、大きな咳が出た。必死に口元を覆ったハンカチには、赤い染み。

 ……もう、終わり、なんだよねぇ。そっか、あっけないや。

 好きだったのに、隠さなきゃいけない思いが、辛い。


「風……冷たい。どうだろう、これ。本当に三か月なんて、持つのかな」


 誰に聞いてもらえるでもない独り言をつぶやく。

 ねぇ、ひどいこと言ってごめんね? 小説バカなんて、そんなこと、思うわけないじゃん。私、あなたのことすっごく尊敬してるのに。

 どうか、彼が幸せに生きていけますように。私を忘れて、私がこの世界から消えても、あなたは息をしてね。たくさんの人に、愛されていてね。

 涙がまた、落ちる。一回流れ出したら、もう止まらない。

 こんな時こそあなたにそばにいてほしかっただなんて願うのは我儘だって、もちろん知ってるよ。私が、あなたを突き放したのに。だけど、どうしても思ってしまうの。

 きっと命の灯が尽きるその時も、私は、きっとあなたのことを――。


◇◆◇◆◇◆


 俺は、深刻なスランプに悩まされていた。

 執筆は原稿用紙ですることにした。そっちのほうが、俺の魂を込められる気がした。俺が俺らしい小説を書けるのは、やっぱりこれだけだったから。

 でも、何が起こったのか鉛筆が全く動かない。今までに初めてのことだった。

 今までは鉛筆を握れば続きに書くべき言葉が見つかって、自然と原稿用紙の升が埋まっていった。その感覚がどこかへ消えて、俺の小説は落ちぶれた。

 それにも関わらず、日常は進んでいく。サークルのグループLINEでは日々新しい話題が更新されていたし、小説新人賞の締め切りだって過ぎた。でも、もう日常なんて、ほかのことなんてどうだっていいのだ。俺は、これさえ書き終わったら消えるんだから。

 しかし、その小説が、どうしようもなく進まない。あの意味の分からない“欲”もどこかに消えて、俺は本当に抜け殻のようになってしまった。

 その心に流れ込んでくるのは……、なぜか春香の笑顔だった。


 それでも、何か月かかけて出来上がったその作品。小説家同士の禁断の恋、その間に生まれるどろどろの関係。殺人要素も含めたミステリー作品。最終的に、春香が病で死ぬ話になった。この小説を書くのに、三か月かかった。

 ちょうどぴったり、春香が結婚するといっていた日だった。何があるわけでもないのに、スマホにその日を記録してあった。きっと、記録していなくても頭のどこかで覚えていたと思う。幸せになってほしいなんて、到底思えなかった。きっと俺は馬鹿なのだと思う。

 でも、不幸にはなってほしくなかった。

 俺の知らない場所で、知らない男と、ひっそり生きてくれればいいと思っていた。


 と、思っていた。




『ね、みんなやばい』

『春香、死んだって』



 ……大学のサークルのグループLINEに送られてきた、二つのメッセージ。

 見たくなかった、こんなの。



「……どうして」


『病気で亡くなったって』



 冷や汗が背中を伝う。震える声の感情は、果たして何か。

 だって、ぴったりだったんだ。

 ――俺の書いた小説に、春香の死に様は。


◇◆◇◆◇◆


 信じられなくてぼうっとする間に、時間は残酷にも過ぎていった。何もしたくないのに腹は減るし、睡眠を身体が欲する。

 本気で、死にたいと思った。

 前、死にたいと感じたあの時の俺の意思はなんて脆弱だったんだろう。なんで、春香は死んだ?


 ……全部、嘘だったんじゃないか。なぁ、春香。

 俺以外の男と結婚するとか、俺のこと、嫌ってるあの言葉とか。どうなんだよ、お前、逃げんなよ。


 そうだ、と俺は思い返す。

 彼女も小説を書いていた。小説家だった。俺たちは、いい競争相手だった。

 死ぬんだったら、同じことを考えるんじゃないか?


 数か月ぶりにアカウントにログインして、彼女の名前を探す。

 ――最終更新、四か月前。


『月が照らすあなたの影に、私は刃を想う』


 俺の投稿と、まったく同じタイトル。同じ場面展開。ただ、視点だけが違っていた。

 これは、春香から見た人生の物語だった。


『私は最愛の人に許されざる嘘をいた。』


 そんな、典型的な文章から始まる物語だった。


『あなたのことを愛していた』

『あなたのそばでは死にたくなかった』

『もうすぐ私の、命がついえる』

『どうか、あなたには笑っていてほしい』

『あなたが読んでいても、読んでいなくても。私はあなたのことを思っている』

『ありがとう、さようなら』


 ……いつのまにか、涙があふれた。小説で涙をこぼしたのは、初めてだった。



「愛していたんだ」



 小さくつぶやいた言葉が、部屋にこだます。



「どうして、救えなかったんだろう……」



 今更、何だってできることはなかった。

 泣いて、泣ききったら、なぜかまた湧き上がってきた。

 心の奥底で、俺の声に春香の声が混じる。



「書こう」



 小説の世界の中だけでも、春香を幸せにしたい。春香に生きてほしい。

 蘇らせることなんてできないって、わかってる。だから、ここだけにはとどめておきたい。君の笑顔、泣き顔、声色、肌の感触。

 君を愛していたなんて証明は、もうできない。君はもう、この世にはいないのだから。

 だから刻む。今宵、君の姿を。それが、君に対する償いだと感じたから。


 鉛筆を削った。君の骨を削るかのような思いがした。

 俺はしっかりと、それを握る。

 原稿用紙、枠外に大きく書く。

 君の名前を、存在を……はるか、遠くまで。





『今宵、はるかを刻む。』

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