三章 夏風に揺れる瓶詰めの声。
夏が深まっていく。
陽炎がアスファルトを歪ませ、空はどこまでも遠い。蝉の鳴き声が痛いほど響いて、世界は生きているのに、僕だけが取り残されていた。
机の上には、貝殻の瓶が並んでいる。海で拾ったものじゃない。静が、去年の夏にくれたものだ。「波の音を閉じ込めておいたんだよ」と笑って、砂浜で、静は本気でそんなことを言った。
僕は笑って、「そんなことできるわけないじゃん。」と返した。でも、今になって分かる。静の言葉はいつだって、嘘じゃなかった。この瓶の中には、確かに“声”がある。耳を近づけると、波の音がする。風が通るたびに、かすかな声が混じる。
「ねえ、まだ、ここにいる?」
僕は何も答えられない。喉が動かない。息が詰まる。外では蝉が鳴き、風鈴が揺れ、部屋の中の空気だけが止まっていた。
その夜、夢を見た。海辺を歩いている夢だ。静はいつも通りの白いシャツを着て、波打ち際で立っていた。僕が手を伸ばすと、静は少しだけ後ずさる。「もう、まだこっちには来ちゃダメだよ」と、優しい声で言う。
でも、その目は泣いていた。涙の代わりに、海の泡が零れ落ちていた。まるで、人魚姫のように。
目を覚ますと、窓の外が淡く明るかった。まだ夜明け前。けれど、空はもう青く染まりはじめていた。僕は、夢の続きを見ようと目を閉じた。けれど、二度と静は現れなかった。
それからの僕は、瓶の音を聞くことしかできなかった。家の中のどこにいても、風が吹くたび、あの声が混ざる。呼吸と、鼓動と、記憶の境目が曖昧になっていく。
夜になると、静の足音がする。冷蔵庫の前で止まり、氷を落とす音。それが聞こえるたびに、僕はグラスを二つ並べる。ひとつは、静のために。ひとつは、僕のために。
そして、風が吹く。風が吹くたびに、瓶の中で声が鳴る。
「ねえ、まだ、ここにいる?」
僕は答えられない。答えたら、全部壊れてしまう気がして。ある晩、電気を消したまま、ベランダに出た。夜風が髪を撫でる。その風の中に、静の匂いが混ざっていた。レモンティーの甘い香り。夏の湿気と、塩の匂い。
僕はふと、気づく。この匂いを覚えているのは、もう僕だけなんだ。
空を見上げると、星が滲んで見えた。涙か、熱気か、区別がつかない。
「静は、あの日、どうして笑ってたの?」
口にした瞬間、声が震えた。蝉の声が止まり、世界の音がすっと消える。代わりに聞こえたのは、瓶の音。風に転がされ、壁にぶつかって、小さく鳴る。その音が、まるで心臓の音みたいだった。
僕は、ふらりと立ち上がって部屋に戻る。貝殻の瓶をひとつ手に取って、光にかざした。中の砂が揺れて、何かが光った。まるで、貴方の瞳の欠片みたいに。
「……ねえ、」
声が震える。
「もう一度だけ、名前を呼んで。」
風が吹いた。瓶が鳴った。
『…凪。』
それは確かに、静の声だった。でも同時に、僕の中の何かが崩れ落ちた。手の中の瓶が震え、砂がこぼれる。貝殻が床を転がって、音を立てる。中に閉じ込めていた“声”が、風に乗って消えていく。僕は追いかけるように、窓を開け放った。夏風が一気に流れ込む。カーテンが揺れて、部屋の紙が舞う。その瞬間、確かに見えた。
海が、遠くで光っていた。静が、そこで笑っていた。でも、手を伸ばしても届かない。何度呼んでも、声は届かない。
そして僕は気づいた。僕が追いかけていたのは、もう“静”じゃない。
ただの幻だ。風の中の、残響だ。それでも、まだ僕は手を伸ばす。だって、それが“生きている証”だから。静に届かないと分かっていても、まだ、ここにいたい。静の声が聞こえる限り、僕はまだ、生きていられる。だから、瓶を拾い上げる。砕けたガラスで手のひらが切れて、赤い血が滲む。それを見て、思わず笑ってしまった。血の色が、夏の空に似ていたから。
青くて、痛いほど、綺麗だった。
風が止む。部屋の中が、急に静まり返る。蝉の声も、瓶の音も、もうしない。
それでも僕の耳の奥には、静の声が残っていた。
「また、海で会おうね。」
その声だけが、唯一の希望だった。僕はグラスをもう一度並べて、氷を落とす。レモンティーを注いで、そっと呟く。
「ねえ、今年も、海へ行こう。」
そして、風がまた吹いた。今度の風は、どこか優しくて、少しだけ温かかった。
夜が明けるころ、風が止んだ。部屋の中に、夏の匂いが残っている。レモンティーの甘さと、潮の苦さ。混ざり合って、どこにも行けないまま漂っていた。机の上には、二つのグラス。片方は空で、もう片方には、氷が溶け残っている。その小さな泡が弾けるたび、遠い海の音がした。
僕は立ち上がる。指先に残る血が乾いて、ひび割れていた。けれど、もう痛みはなかった。窓の外は青かった。世界が燃えるみたいに、蒼穹が広がっている。
あの青が怖かった。
でも、今日は...少しだけ、綺麗だと思った。
「今年も海へ行こう。」
自分の声が、風に消える。それでも、確かに届いた気がした。瓶の中の砂がひと粒、音を立てて動いた。
まるで、誰かが頷いたみたいに。
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