終章 海へ。

朝、目が覚めた瞬間、蝉の声が胸の奥を刺した。それは、まるで「今日が最後の日だ」と告げているようだった。カーテンの隙間から射し込む光が白すぎて、現実と夢の境が曖昧になる。時計の針は、静かに午前七時を指していた。

僕は、ゆっくりと起き上がり、机の上に置かれたカレンダーを見る。

“8月10日”。

赤い丸印が、少しだけ滲んでいる。それを見た瞬間、喉の奥が勝手に鳴った。泣いているのか笑っているのか、自分でもわからなかった。

着替えを終え、鏡の前に立つ。映る顔は、ひどく青白い。目の下の隈は、眠れぬ夜を物語っていた。それでも構わない。今日は、もう何も隠す必要がない。玄関のドアを開けた瞬間、熱気が頬を撫でた。夏が、息をしている。焼けるようなアスファルトの匂い。どこかの家の風鈴が、遠くで鳴っていた。それが、まるで誰かの呼吸みたいで、胸が詰まった。

バスに揺られながら、窓の外を見る。青い空、白い雲、そして波打つ稲の海。世界は、変わらず生きていた。静がいなくなっても、季節は巡る。そんな当たり前が、どうしようもなく残酷だった。

海に着くまでの道を、僕は何度も歩いた。でも、今日は景色が違って見える。光が滲み、遠くの水平線が歪んでいた。それは、熱のせいか、涙のせいか、もうわからなかった。

「…静。」

呼んでも返事はない。けれど、風が頬を撫でた瞬間、確かに誰かの気配を感じた。潮の香りの中に、静の声が混ざっている気がした。

「凪、来年も、また海を見に行こうね」

あの声が、波に溶けて、僕の鼓膜を焼いた。

浜辺に立つと、足の裏がじりじりと焼けた。靴を脱いで、砂を踏みしめる。遠くで子どもたちの笑い声がする。あの頃と同じ夏なのに、僕らだけがいない。世界から、切り取られてしまったような感覚。

ポケットの中には、小さな貝殻が一つ。あの日、静と拾ったものだ。欠けて、傷がある。でも、それが僕らの形のようで、捨てられなかった。指でなぞるたび、静の指先の感触が蘇る。冷たくて、やわらかかった。

海風が強くなり、空が少しだけ曇る。波打ち際まで歩いて、僕は目を閉じた。潮が足元をさらうたびに、心臓の奥まで引きずられる。もう、ここまで来たんだ。誰もいない砂浜で、僕は小さく笑った。

「…ごめんね、静。でも、やっと行けるよ。約束、守りに来たんだ・・・・・・・・・・。」

ポケットの中の貝殻を、掌に包み込む。波の音が遠くで鳴り続けている。その中に、確かにあの声が混ざっていた。

「凪。」

ほんの一瞬、名前を呼ばれた気がした。振り向いても、誰もいない。だけど、空が泣き出しそうに揺れていた。

青は、こんなにも深いのか。空も、海も、涙も、全部、同じ色をしていた。僕は笑って、静かに目を閉じた。貝殻を唇にあてて、そっと囁く。

「遅くなってごめん。でも、もうすぐ行くね。待ってて。」

そのまま、一歩、海へと足を踏み出した。水が膝を、胸を、肩を飲み込む。冷たさが心地よかった。最後に見上げた空は、残酷なほど青かった。

そして、波が音を飲み込んだ瞬間。世界が、完全に静まり返った。

胸の奥が痛い。息を吸うたび、苦しくて仕方がない。

「…ごめんね。」

誰に言っているのか、もうわからなかった。でも、その言葉しか出てこなかった。

空が少し霞んできた。太陽が水の向こうに隠れて、光が柔らかくなった。それが、まるで天が僕を許してくれているみたいで、少しだけ笑えた。

「…静」

もう一度、名前を呼ぶ。…そうだ、これが約束だった。

“来年も、また海を見に行こう”

僕は来たよ、静。やっと、君のところへ行ける。

持っていた貝殻を唇に押し当てる。波が強くなって、僕の足跡を消していく。世界から、僕が少しずつ消えていくようだった。

「ねえ、静。海の底は、静かかな?」

答えはない。でも、水が揺れた。海中で。頬を撫でて、髪を撫でて、優しく背中を押した。その一瞬、確かに彼の手の温もりを感じた。

僕は笑って、空を見上げた。青が、広がっていた。怖くなんてなかった。むしろ、綺麗だと思った。

……ようやく、見られた。君の色を、ちゃんと見られた。

空と海がひとつになる。僕と静が、もう一度会える場所。

名前を呼んだ瞬間、涙が溢れた。笑いながら泣いた。泣きながら笑った。涙が海に溶けていく。最後に残った音は、波の音だった。世界が、完全に溶けていく。

夏が、終わる。

──その瞬間、世界は音を失った。

波の音も、風のざわめきも、遠く遠くに沈んでいく。代わりに、胸の奥で小さな泡が弾けた。それが息なのか、涙なのか、もうわからない。

ただ、光だけがあった。深く、澄んで、どこまでも青い光。それは冷たくも、あたたかくもあった。まるで、静の手のひらのよう・・・・・・・・・だった。


「おかえり、なぎ。」


その声が、どこかから聞こえた。目を開けると、そこにはあの日の海が広がっていた。波は穏やかで、空は溶けるように青くて、砂浜には二つの影が寄り添っていた・・・・・・・・・・・・

「…静?」

呼ぶ声が、風に溶けた。振り返ったその先に、確かに彼はいた。少しだけ日焼けした頬。いつもの白いシャツ。そして、あの夏の日の笑顔のままで。

「遅かったね、凪。」

「ごめん、迷ってた。」

「うん、知ってる。ずっと、待ってたから。」

静の声は、波の音と一緒に凪の心に滲んだ。涙が出なかった。ここにはもう、痛みも、悲しみもない。ただ、風が吹くたび、二人の髪が同じ方向に揺れた。

夏の香りがした。遠くで、風鈴の音がかすかに鳴った。

「ねえ、静。」

「ん?」

「来年も、また海を見に行こう。」

静は目を細めて笑った。

「うん、今度は置いてかないでね。」

凪は笑いながら頷いた。

海の向こう、陽炎のように揺れる地平線。その先には、もう悲しみのない世界が広がっているように見えた。

二人は裸足のまま歩き出した。砂はやわらかく、波は静かに寄せてくる。すれ違う風の中に、かつての自分たちの声が混ざっていた。笑い声、約束の声、泣き声。全部、夏に還っていく。

「静。」

「なに?」

「君の色、やっと綺麗だって思えた。」

静は少し照れたように笑った。

「でしょ?だから、僕はこの青が好きなんだ。」

二人は海を見た。

どこまでも、蒼かった。空も海も、混ざり合って、境界がなくなっていた。その光景は、まるで永遠のようだった。

風が吹く。静が凪の手を取る。指と指が重なった瞬間、世界がふっと柔らかくほどけた。

「行こう、凪。」

「うん。どこまでも、一緒に。」

波が二人の足跡を消す。その上を、夏の風が優しく撫でた。遠くで、蝉が一声だけ鳴いた。それはまるで、季節の終わりを告げる鐘のようだった。

光が満ちる。青の世界が、二人を包み込む。

もう、怖くない。もう、寂しくない。

海と空の間で、二人は笑った。風に溶けて、光に混ざって、夏の終わりと共に消えていった。


「やっと、逢えたね。」

「うん、やっと。」


その声が最後に残った。海は静かに光り、空は、どこまでも青かった。

そして、夏は静かに幕を閉じた。

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清夏に蒼穹を添えて、貴方に逢いに行く。 ぬるま湯 @Siori_002

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