二章 青を見上げることが怖かった。

午前十時。

陽射しはもう真上から降ってきていた。電車に乗る前に、駅前の売店でレモンティーを買う。静が好きだった味。氷の音がからん、と小さく鳴る。

電車の中は、夏休みの子どもたちで賑わっていた。小さな笑い声と、風鈴のストラップの音。そのすべてが、僕の中の「今」と噛み合わない。僕の時間だけが、別の方向へ流れている気がする。

窓の外を、光る海が横切った。目を細めて見る。それだけで、胸の奥に痛みが走る。あの青は、静の瞳の色に似ていた。

電車が揺れるたび、記憶も少しずつ崩れる。夏の日差しが、どこまでも刺すように強い。ふと、隣の席の少年がアイスを持った手で車窓を指差した。

「ねぇ、海だよ!」

母親の笑う声がする。僕は、その瞬間、息を止めた。“海”という言葉だけで、喉が詰まる。静がいなくなった海。僕の中では、永遠に夏が終わらない。

砂浜に立つと、潮の匂いが鼻の奥を刺した。焼けた砂が熱くて、サンダル越しにも火傷しそうだった。

波が寄せては返す。その音が、まるで「おかえり」と言っているようで、少しだけ息が詰まった。

おかえり、なんて言われる資格、僕にはない。

波打ち際にしゃがみ込んで、手を水につける。冷たいのに、どこか懐かしい。指先に触れる海水の感触は、静の指に似ていた。僕はそのまま、掌を水に沈めて、そっと呟いた。

「……来たよ、静。」

風が吹いて、砂が舞った。遠くで誰かの笑い声がした。太陽があまりにまぶしくて、涙が出そうになる。それでも泣かない。泣いたら、もう戻れなくなる気がした。

ポケットから、小さな貝殻を取り出す。去年、静と拾ったものだ。同じ形のものを、静も持っていたはずだった。けれど、あの日の海で、静の分は波にさらわれた。だから僕は、この貝殻を二人分として持ち続けていた。

「覚えてる? あの時、君が言ったんだよ。貝殻の音は、心臓の音に似てるって。」

そう言いながら、貝殻を耳に当てる。波の音が聴こえる。だけど、それは鼓動のようにも聞こえた。

──静。

僕は、まだ君を忘れられない。君が消えた“あの青”を見るたび、胸が痛む。でも、今日は見ようと思う。君が最後に見上げた、あの青色を。

潮風が髪を撫でる。波の音と蝉の声が重なり合う。空はどこまでも高く、青い。その青を、僕は初めて真正面から見上げた。

痛いほど、眩しかった。けれど、目を逸らさなかった。

青の中に、静が笑っている気がした。

「もう、泣かないで」

そんな声が、風に混ざって聞こえた。僕は唇を噛んで、笑う。

「泣いてないよ」

誰もいない空に向かって呟く。その瞬間、頬を伝ったのは涙だった。

帰り道、海を振り返った。太陽は少し傾いて、海面が金色に染まっていた。その光の中に、静の影が見えた気がした。立っている。微笑んでいる。そして、手を振っている。「さよなら」でも「またね」でもない。その仕草は、ただの“ありがとう”に見えた。僕は、静かに頷いた。

「……うん」

波がひとつ、大きく砕けた。そして、その姿は陽炎みたいに消えた。

空を見上げる。怖くはなかった。青が、少しだけやさしく見えた。

電車の中で、僕はずっと手の中の貝殻を握っていた。指先に小さな傷ができるほど、強く。けれど、痛みは何も感じなかった。それよりも、この手がまだ温かいことのほうが、奇妙に思えた。静の手は、あの日、もう冷たかったから。

誰かを失うって、こんなにも現実味がない。最初のうちは、「また会える」と思っていた。きっとドアを開けたら、あの笑顔で「おかえり」って言ってくれる。でも、時間だけが進んでいって、世界は何事もなかったように朝を迎える。そのたびに思い知らされるんだ。僕の世界から、静だけが欠けたってことを。

静は、いつも“青”が好きだった。ノートの端にも、スケッチブックにも、青いインクで文字を書いていた。

「青って、呼吸みたいだよね」

そんなことを言って、笑っていた。僕はそのとき、ただ「変なこと言うな」と笑い返した。けれど、今ならわかる。静にとっての青は、生きることそのものだったのだと。

だからこそ、僕は今でも、青を見上げるのが怖い。あの日、僕は静を止められなかった。それが、僕の“罪”だった。

あれは、八月十日の午後。強い日差しと、真っ青な空。波打ち際で、静は裸足のまま海を見ていた。足首まで濡らしながら、風に髪を揺らして、まるで何かを待っているようだった。僕はその姿を見ながら、ただ立っていた。胸の奥が、ざわざわと波打っていた。何か言わなきゃと思っていたのに、言葉が出てこなかった。

「凪、海って怖くない?」

静はそう言った。僕は首を傾げた。

「怖い? どうして」

静は目を細めて、波の向こうを見た。

「だって、吸い込まれそうで。...でも、同時に呼ばれてる気もする。」

笑いながら言ったその声が、妙に遠く聞こえた。僕は何かを感じ取っていたはずなのに、気づかないふりをした。気づいたら、壊れてしまう気がした。だから、目を逸らした。それが、最後だった。

次の瞬間、静は海に歩き出していた。白いシャツが、風に揺れる。足跡が波に飲まれて消える。僕は声を出そうとして、できなかった。心臓が冷たい手で掴まれたように、動かなかった。あのとき僕がただ一言、「戻れ」と叫んでいれば、何かが違ったのかもしれない。けれど、僕は立ち尽くしていた。静が、青の中に消えていくまで。

波がひとつ、大きく砕けた。それがすべてだった。静の姿は、もうどこにもなかった。ただ、太陽の光が海面に反射して、青の奥をきらきらと照らしていた。まるで、笑っているみたいに。その青の中に、静が溶けていった。僕は、ただ見ていた。


見ていただけだった。


あの日から、僕は空を見上げられなくなった。あの青を見るたび、静の声がする気がした。

「凪、ねぇ、こっちにおいで」

海の底から、優しく呼ばれているような声。それがあまりにも穏やかで、恐ろしかった。だって、ほんの少し手を伸ばせば、僕も届いてしまいそうだったから。

帰り道、僕はまた貝殻を取り出した。それを胸の前に掲げる。光を透かした貝殻は、ほんの少し青く見えた。それは、静の瞳の色でもあり、海の色でもあり、空の色でもあった。

そして、僕がずっと逃げてきた“罪”の色でもあった。

海辺のベンチに座って、貝殻を膝の上に置く。蝉の声がうるさいほど響いている。でも、不思議と嫌じゃなかった。その喧噪が、生の証のように思えた。生きている世界の音。静がいなくなっても、世界はこうして続いている。それが、少しだけ救いのようにも感じた。

「静。」

呼んでみる。風が頬を撫でた。それだけで、涙が零れた。今度は止めなかった。泣くことを、やっと赦せた気がした。

「僕、まだ生きてるよ。でも、もう少しだけ…君のところに、行きたかった。」

波の音が優しく返す。まるで、静が「まだ早いよ」と笑っているようだった。僕は、涙を拭いて笑った。それでいい。もう少し、生きてみようと思えた。青の下で、もう一度だけ呼吸してみようと思えた。

空を見上げる。あの青は、やっぱり眩しくて、痛くて、それでも少しだけ美しかった。静が見ていた世界は、きっと、こんな色だった。僕はその青を胸に焼きつけて、立ち上がった。

「…行こう。来年こそ、また海を見に行こう。」

歩き出す足元で、波が弾けた。その音が、まるで笑い声のように響いた。夏が終わる。けれど、僕の時間は、ようやく動き出した。

空は、今日も青い。でも、もう怖くはなかった。

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