清夏に蒼穹を添えて、貴方に逢いに行く。
ぬるま湯
一章 白い夏と貴方の不在。
夏が来た。
なのに、世界はどこか色を失っている。風鈴の音が軒下でかすかに揺れ、
どれも捨てられなくて、そのまま時を止めてしまった。止まっているのは、世界じゃない。僕の時間だけなんだと、やっと気づいた。テレビから流れるニュースは、今日も変わらない日常を報せている。だけど、僕にとっては、どれも無関係な音だった。静のいない日常なんて、ニュースの中の遠い国みたいで、実感がなかった。
カレンダーの
“海”って書いてある。
僕はその文字を指でなぞって、喉の奥が熱くなるのを堪えた。
「来年も、また海を見に行こうね。」
そう言った静の声が、今も耳に残っている。あのときの笑顔も、指先のぬくもりも、全部。でも、来年なんて来なかった。僕らは“今年”を越えられなかったんだ。あの日の午後、真っ青な空の下で、静は風に溶けた。理由なんて、誰も知らないだろう。
ただ、
それからの僕は、空を見上げることができなくなった。だって、あの青が、静の瞳の色に似ていたから。見上げるたびに、胸の奥がひどく痛む。まるで、心臓を手でぎゅっと握り潰されるような痛み。——あの青に、僕の罪が透けて見える気がした。
「ごめんね」
独り言のように呟いても、返ってくる声はない。部屋の空気は静かすぎて、音が死んでいる。扇風機が回る音だけが、時を刻むように響いていた。僕は今日も、冷蔵庫の奥からレモンティーを出す。静が好きだった、甘くて少し苦いあの味。氷を入れて、グラスを二つ用意する。ひとつは、貴方の席に。もうひとつは、僕の前に。乾杯の代わりに、心の中で言う。
「今日も、ちゃんと生きてるよ。」
でも、もう少しだけ、静のところに行きたくなった。
外では、午後の光が窓を白く照らしている。蝉の声が、まるで呪文みたいに耳の奥で響く。夏の空は、今日もどこまでも青い。それが、こんなにも残酷に見えるなんて、知らなかった。静がいないだけで、夏は、こんなにも静かになるんだね。部屋の壁に、夏の日差しが滲んでいる。淡い影がカーテンを揺らし、まるで水の底にいるみたいだった。その光の粒の中に、静の面影を探してしまう。笑う唇、伏せた睫毛、頬に落ちる光。——でも、そこにいるのはただの幻だ。
夜になると、風の音がする。この部屋のどこかで、まだ貴方が息をしている気がする。僕は何度も呼んだ。名前を、声を、手を伸ばした。でも、掴めるのは冷たい空気ばかりだった。世界は優しいふりをして、いつだって残酷だ。
眠ることが怖い夜がある。夢の中でだけ、静が生きているから。目を覚ませば、また現実に取り残される。だから、僕はできるだけゆっくり瞬きをする。まるで、それが静との時間を延ばす方法みたいに。
机の引き出しには、静の手紙がある。「ありがとう」の文字が、幼い筆跡で震えていた。読み返すたびに、胸の奥が焼ける。インクのにじみは、もう乾いているのに。僕の涙だけが、まだ乾かないままだ。
もしあの日、僕があの言葉を飲み込んでいたら。もしあの日、あの場所に一緒に行かなければ。もし、もし、もし——
そんな「もし」ばかりが、夜の底で僕を噛む。生きていることが、罰のように思えた。
窓の外で、夕立が降り出した。雨の音は、まるで拍手のようだ。空が泣くとき、少しだけ救われる気がする。「泣いていいのは空だけだよ」って、静が笑っていたから。だから僕は泣かない。泣かない代わりに、雨音を聞く。
ふと、机の上の写真立てが揺れた。静の笑顔が、少しだけ歪んで見えた。その歪みの中に、僕はまだ取り残されている。時計の針は動いているのに、心の針は止まったままだ。
——きっと、静が持っていってしまったんだ。
夜が深まる。街の灯りが遠ざかって、世界が息をひそめる。その静けさの中で、僕はゆっくりと目を閉じ、海の底を思い出す。あのとき、静が言った言葉を。
“いつか、海の向こうでまた会おう”
それが、最後の約束だった。波の音が、耳の奥で鳴っている気がする。胸の奥に手を当てると、鼓動が海みたいに揺れた。生きている音。でも、静のいないこの音が、どうしても孤独に聞こえる。
窓を開けると、夜風が頬を撫でた。その風の匂いが、静のシャンプーに似ていて、僕は思わず、笑ってしまった。泣きながら、笑っていた。静がいた頃と同じように、笑っていた。
——ねえ、もう少しだけ、静のことを夢見ていいかな。
夜が明けるまでの時間を、僕は“記憶”で埋める。静と過ごした夏の午後を、一つひとつ拾い集めていく。まるで貝殻を拾うみたいに、波打ち際で。砕けた思い出が指に痛い。でも、それすらも愛しい。朝が来たら、僕は海へ行こうと思う。静が消えた、あの場所へ。海の底は、きっと静かで、あたたかい。波の音に包まれながら眠れば、きっとまた、静に逢える気がするんだ。
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