死神はただひとすじ飛んでいた

早瀬 コウ

プロローグ 死神の消えた空で

還行のはじまり

“かくて大地は天空の果てに置かれ、

人は限りある聖源トゥルグの輝きをたのみとし、

大いなる還帰カンガを待つ”


——還帰の書イルク・カンガ 第三章 七節より


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 空に死神を見なくなって一年と三ヶ月が過ぎた春だった。


 アグルクは飛獣に乗って羊の群れを追っていた。早めに柵の中に戻さなければ、また天気が荒れそうだったからだ。さっきまで飛んでいたというのに、飛獣のムーファはまた空を飛びたがった。

 しかし羊を追うのに飛獣は早すぎる。こうしてのんびり歩かせながら牧羊犬のユージャに指示を飛ばしている方が、羊を怯えさせることもない。アグルクが笛をまたひとつ鳴らすだけで、ユージャはすぐに群れの外周を大回りして、反対側ではぐれそうになった羊を群れに返してくれる。


 ムーファが黄色い瞳をしばたたかせて、右の彼方かなたの丘を見た。


「どうした」


 騎乗したまま首をでてみると、ムーファは視線の先に気配を認めたようである。飛獣は不思議な生き物で、音や匂いに気づくわけではない。むしろそこにある心の揺らぎのようなもを感じ取る。これだけの距離で何かを察知したとなれば、よほどの知らせを抱えて走っている者がいるに違いない。アグルクはくらを握る手を強めて稜線りょうせんに目を凝らした。


 一つの影が飛び出す。あかね色の毛皮帽。それは首長トゥルグを守る近衛このえに与えられるものだ。だからアグルクにはそれが誰かすぐにわかった。


「ユージャ、あと頼めるか」


 ユージャはワンと太く吠える。アグルクはくらつか手綱たづなを緩め、ムーファの腹をった。ムーファの背に大きな翼が広がる。二、三歩と駆け出すと、次には高く舞い上がった。


「カルシが戻った! 何かあったらしい!」


 テントの上空を一度回りながら大声でそう伝える。父が手を止めて丘を見やった。すでにムーファは風をうならせてカルシのもとへ空を駆けている。速度を殺さないように大きく旋回すると、後ろからカルシの馬に並んで地表を滑ってみせた。


「どうした!」

「兄さん! 還行カンギュルだ!」


 アグルクは口を開きこそしたが、言葉をひとつとして選び出すことができなかった。胸がひとつ重くなるのを感じる。


「急だけど明日にも発つらしい!」

「明日だって!?」

「やるしかない! 兄さんはサリムを儀式場に! こっちは僕も手伝う!」


 つばを飲んだ喉が硬いのがわかる。それでも今は応じるべきだ。


「わかった! 母さんは病が重い! 父さんをよく支えてくれ!」

「任せて!」


 ムーファを加速させて、外れに立てられたテントに向かう。大きく羽ばたかせて減速させ、飛び降りるように大地に降り立った。


 アグルクの足取りに躊躇ためらいはなかった。大地を踏みつけるように歩み、決意を持ってテントに手をかける。


「サリム、いるか」


 灰色の服を着て、ストーブの上の鉄の鍋をのぞく若い女。ずいぶんと荒く呼びかけられたにも関わらず、サリムはちらとアグルクを見ただけで、また料理に戻ってしまった。バターの匂いがしている。


「どうしました、そんなに慌てて」

「サリム、落ち着いて聞いてくれ」

「わたしは落ち着いていますが」


 そう言いながら、水瓶みずがめから一杯の水をすくって差し出す。アグルクは受け取りこそしたが、とても飲めそうにはなかった。水面が揺れるのだけを見て、すぐにサリムに視線を戻す。


還行カンギュルだ」

「……そうですか。いつです?」


 サリムはまるで羊の毛を刈る予定を聞くようなそっけなさだった。ただ還行カンギュルと聞いたとき、小刀で切った肉を鍋に入れる手を、ほんの一瞬だけ止めはした。しかしそれっきり平静に料理を続けてしまう。


「明日にも発つと聞いた。いいか、聞いてくれ」

「明日ですか。では儀式はすぐですね」


 ストーブから鍋を下ろして脇に置く。腰に挟んでいた古布を引き抜いて手を拭くと、それを放ってしまう。


「……ではお母様にお別れを」


 歩み出したサリムに立ち塞がる。サリムの眼には強い意志があった。しかしアグルクは声を抑えて続ける。


「君がもう死んでいることにする。今からムーファで儀式場に向かう。その途中で一度降りて、君を布か何かで隠す。向こうには君が先週死んだと言って、父さんや母さんには君は儀式に連れて行ったと言う」


「どういうことですか?」

「わからないか? 君を連れて行くんだ。還行カンギュルに」


 サリムはうなずかない。ただ怪訝けげんそうな顔をして小さなにらみ合いをしたあと、子供に教えるように当たり前のことを言った。


「それは間違っています。わたしはこの地の聖源トゥルグに生きています」

「いいや、君の聖源トゥルグがなんだろうと、僕はそうする。わかったね」


 アグルクは有無を言わさずサリムの腕をつかんだ。サリムはただ待ってとだけ言い、干し肉の入ったかごに布をかける。


「あとはヤギの乳を入れてしばらく煮れば夕食になります」

「君の分もあるか?」


 サリムはついにため息をついた。


「アグルク、わたしは儀式に行くんだから、もうこれは食べません」

「わかった、それでいい。なにかいいフェルトはないか」

「ありません」

「わかった、もういい」


 まったく協力しないサリムを奥に押しやって、アグルクはあたりをひっくり返す。といってもこのテントにはほとんど物がない。置かれたものはすべて灰色に塗られていて、どう使っても地縫ヨルクの物だと知れてしまう。とてもサリムを隠せそうにはなかった。

 自分のテントから何かを引っ張り出すか、テントを解体してフェルトを被せるかと考えたとき、アグルクは寝床の下にずいぶん大きな黒い布を見つけた。


「これは?」

「前にお母様に頂いたものです」

「母さんが? サリムに?」

「はい」


 サリムは表情ひとつ変えなかった。地縫ヨルクに黒い布を渡すなど普通ありえない。母の服を仕立てるために貸し与えたというなら納得できる話だったが、その口ぶりからは文字通りに違いないようだった。

 母の目的がなんであれ、人を一人包んですっぽり隠すことには役に立つ。


「これで身を隠そう。何か言われても、あわてたから持ってきてしまったと言えばいい」

「アグルク。わたしはあなたの考えには反対です」

「わかっている。だがどうか頼む。君は僕たち一家に必要な人間だ」


 眉をひそめたサリムの腕をつかんで、アグルクはテントを打ち開く。動物小屋に近い寝床のテントはすでに布が取り払われ、病床の母がベッドごと運び出されていた。


「わたしはサリムを連れていきます」

「サリム! こっちにきておくれ!」


 母が声を振り絞った。やむなくアグルクはサリムを行かせる。先に丸めた大布をムーファの横っ腹にくくり付けた。


 母は膝をついたサリムの腕をとって熱心に語りかけている。サリムは空いている方の手でほほぬぐっていた。


「その辺にしてくれ母さん。急ぐんだ」

「アグルク、ほんとうにいいのかい?」

「……よくはないよ。でも仕方ない」

「お母様、本当にありがとうございました。いずれ風をお届けします」


 母は目に涙を浮かべて抱擁ほうようを求めた。身を寄せてしばらく抱き合うと、サリムは凛々りりしい目つきで立ち上がる。名残惜しい指先が離れ、いよいよ母は涙に顔をひどくゆがませた。


「行きましょう」


 驚くほどのいさぎよさで、サリムはアグルクより先に歩き始めた。その背に母が涙まじりに名を呼ぶ声が続いたが、サリムが振り返ることはない。

 アグルクは先にムーファにまたがった。くらからサリムに手を差し出す。しかしその手はひどく震えていた。アグルクは手綱を手放して肩を抑える。


 サリムはあぶみに片足をかけ動きを止めた。


「つかまって」


 サリムの翡翠ネフライトのような瞳が、アグルクを見つめている。それはほんのわずかの間だった。彼女は目を閉じると、息をひとつ吐く。


「いきましょう」


 いつもよりも強く握られた手に、サリムの体重がかかる。そのままサリムは跳ね上がり、今度はアグルクの肩を支えにムーファにまたがった。

 ムーファは低くうなって立ち上がる。その声を聞いて、アグルクはひとつ首元を撫でてやった。


「お前が緊張することはないさ。サリムがいるから、丁寧に飛べばそれでいい」


 ムーファはアオと返事をして、翼を広げた。全身を弾ませるように助走をすると、風をうけて高く舞い上がる。

 母のためにテントを一つ大きく回ると、カルシが手を振っている。その傍らで父は祈りの姿勢を取っていた。サリムはアグルクの腰から片手を離して大きく手を振りかえす。飛獣のうえで恐れなくこんなことができる女など二人といないだろう。


 脚をしぼって声をかけるだけで、ムーファは首を落として羽を強く打つ。耳元で風のうなりが高まって、二人は身を屈ませた。放たれた矢のように、あるいは投げられた槍のように、ムーファは一直線に丘目掛けて飛んでいく。振り返った眼下に、すでにテントは小さく遠かった。

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2025年12月24日 18:00
2025年12月27日 18:00
2025年12月31日 18:00

死神はただひとすじ飛んでいた 早瀬 コウ @Kou_Hayase

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