死神はただひとすじ飛んでいた
早瀬 コウ
プロローグ 死神の消えた空で
還行のはじまり
“かくて大地は天空の果てに置かれ、
人は限りある
大いなる
——
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
空に死神を見なくなって一年と三ヶ月が過ぎた春だった。
アグルクは飛獣に乗って羊の群れを追っていた。早めに柵の中に戻さなければ、また天気が荒れそうだったからだ。さっきまで飛んでいたというのに、飛獣のムーファはまた空を飛びたがった。
しかし羊を追うのに飛獣は早すぎる。こうしてのんびり歩かせながら牧羊犬のユージャに指示を飛ばしている方が、羊を怯えさせることもない。アグルクが笛をまたひとつ鳴らすだけで、ユージャはすぐに群れの外周を大回りして、反対側ではぐれそうになった羊を群れに返してくれる。
ムーファが黄色い瞳を
「どうした」
騎乗したまま首を
一つの影が飛び出す。
「ユージャ、あと頼めるか」
ユージャはワンと太く吠える。アグルクは
「カルシが戻った! 何かあったらしい!」
テントの上空を一度回りながら大声でそう伝える。父が手を止めて丘を見やった。すでにムーファは風を
「どうした!」
「兄さん!
アグルクは口を開きこそしたが、言葉をひとつとして選び出すことができなかった。胸がひとつ重くなるのを感じる。
「急だけど明日にも発つらしい!」
「明日だって!?」
「やるしかない! 兄さんはサリムを儀式場に! こっちは僕も手伝う!」
「わかった! 母さんは病が重い! 父さんをよく支えてくれ!」
「任せて!」
ムーファを加速させて、外れに立てられたテントに向かう。大きく羽ばたかせて減速させ、飛び降りるように大地に降り立った。
アグルクの足取りに
「サリム、いるか」
灰色の服を着て、ストーブの上の鉄の鍋を
「どうしました、そんなに慌てて」
「サリム、落ち着いて聞いてくれ」
「わたしは落ち着いていますが」
そう言いながら、
「
「……そうですか。いつです?」
サリムはまるで羊の毛を刈る予定を聞くようなそっけなさだった。ただ
「明日にも発つと聞いた。いいか、聞いてくれ」
「明日ですか。では儀式はすぐですね」
ストーブから鍋を下ろして脇に置く。腰に挟んでいた古布を引き抜いて手を拭くと、それを放ってしまう。
「……ではお母様にお別れを」
歩み出したサリムに立ち塞がる。サリムの眼には強い意志があった。しかしアグルクは声を抑えて続ける。
「君がもう死んでいることにする。今からムーファで儀式場に向かう。その途中で一度降りて、君を布か何かで隠す。向こうには君が先週死んだと言って、父さんや母さんには君は儀式に連れて行ったと言う」
「どういうことですか?」
「わからないか? 君を連れて行くんだ。
サリムは
「それは間違っています。わたしはこの地の
「いいや、君の
アグルクは有無を言わさずサリムの腕を
「あとはヤギの乳を入れてしばらく煮れば夕食になります」
「君の分もあるか?」
サリムはついにため息をついた。
「アグルク、わたしは儀式に行くんだから、もうこれは食べません」
「わかった、それでいい。なにかいいフェルトはないか」
「ありません」
「わかった、もういい」
まったく協力しないサリムを奥に押しやって、アグルクはあたりをひっくり返す。といってもこのテントにはほとんど物がない。置かれたものはすべて灰色に塗られていて、どう使っても
自分のテントから何かを引っ張り出すか、テントを解体してフェルトを被せるかと考えたとき、アグルクは寝床の下にずいぶん大きな黒い布を見つけた。
「これは?」
「前にお母様に頂いたものです」
「母さんが? サリムに?」
「はい」
サリムは表情ひとつ変えなかった。
母の目的がなんであれ、人を一人包んですっぽり隠すことには役に立つ。
「これで身を隠そう。何か言われても、
「アグルク。わたしはあなたの考えには反対です」
「わかっている。だがどうか頼む。君は僕たち一家に必要な人間だ」
眉を
「わたしはサリムを連れていきます」
「サリム! こっちにきておくれ!」
母が声を振り絞った。やむなくアグルクはサリムを行かせる。先に丸めた大布をムーファの横っ腹に
母は膝をついたサリムの腕をとって熱心に語りかけている。サリムは空いている方の手で
「その辺にしてくれ母さん。急ぐんだ」
「アグルク、ほんとうにいいのかい?」
「……よくはないよ。でも仕方ない」
「お母様、本当にありがとうございました。いずれ風をお届けします」
母は目に涙を浮かべて
「行きましょう」
驚くほどの
アグルクは先にムーファに
サリムは
「つかまって」
サリムの
「いきましょう」
いつもよりも強く握られた手に、サリムの体重がかかる。そのままサリムは跳ね上がり、今度はアグルクの肩を支えにムーファに
ムーファは低く
「お前が緊張することはないさ。サリムがいるから、丁寧に飛べばそれでいい」
ムーファはアオと返事をして、翼を広げた。全身を弾ませるように助走をすると、風をうけて高く舞い上がる。
母のためにテントを一つ大きく回ると、カルシが手を振っている。その傍らで父は祈りの姿勢を取っていた。サリムはアグルクの腰から片手を離して大きく手を振りかえす。飛獣のうえで恐れなくこんなことができる女など二人といないだろう。
脚を
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死神はただひとすじ飛んでいた 早瀬 コウ @Kou_Hayase
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