3-5 紅茶と幻視
沈黙が落ちた。
外の廊下を歩く生徒たちの笑い声が、遠く、まるで別の世界の音のように感じられる。
先輩はゆっくりと息を吐いた。
指先で金のペンを転がしながら、片眉をわずかに上げる。
「では仮に──旧館が危険だという話が嘘だったとして、だからどうだと言うんだ?」
私は一歩、前へ出た。
「だから、怪談研究会に、旧館を調査する許可をください」
先輩の唇が開かれる。
「ダメだ」
即答だった。
その一言には、刃のような冷たさがあった。
「……なぜですか?」
私の声は静かだったが、その奥に熱がある。
先輩は片手を持ち上げて私のほうに向ける。
「安全だからといって、お前たちを招き入れる理由は何もない」
「それはそうですね」
私はあっさりと認める。
その表情が落ちついているのを見て、先輩の眉がわずかに動いた。
──ここで引くと思ったのかもしれない。
だが私は、次の刃をすでに研ぎ終えていた。
「では、教えてください」
私の声が、静かに空気を裂く。
「旧館は、何の目的で設立されたのですか?」
先輩の瞳が、かすかに揺れた。
すぐに、冷笑がその揺らぎを覆い隠す。
「そんなことか」
先輩は窓の外を見た。
午後の光がその横顔を照らし、長い髪が金の糸のように光を受ける。
「旧館という名の通り──昔のアザレア女学院だよ。この新館が建てられる前に使用されていた」
私は、静かに首を横に振った。
「それも嘘です」
先輩の肩が、わずかに止まる。
「アザレア女学院は私立学校で、法人登記の必要があります」
私は怪談研究会として日々調査した成果をここで活用する。
「しかし──旧アザレア女学院が法人登記されていた記録は、どこにも存在しません」
透子が私の袖を握る手に力がこもる。
手の震えが伝わる。
先輩は振り向き、ゆっくりと私に視線を戻した。
目を丸くし、数秒、何かを測るように沈黙したあと──。
「どこまで調べてる?」
その声には、先ほどまでの余裕がなかった。
私は答えなかった。
ただ、まっすぐに先輩を見返していた。
──沈黙が、重く、長く続いた。
沈黙を破ったのは、先輩のほうだった。
「……では逆に問おう」
金のペンを机に置き、芝居がかった動作で両手を横に広げる。
その声音は、先ほどまでの余裕を取り戻したようでいて、どこか探りを含んでいた。
「旧館はいったい何の施設だったんだ?」
私は息が詰める。
あちらから問われるはずのない問いだった。
この学院で誰も語らず、みなが見ようとしない“禁忌”に、いま、踏み込もうとしている。
「……おそらく……」
言葉を紡ごうとした瞬間、世界が傾いた。
──痛い。
こめかみの奥で、何かが暴れるように痛む。
視界の端が白くかすみ、音が遠のいていく。
教室の窓の向こうにあるはずの景色が、砂嵐のようにざらついて揺らめいた。
次の瞬間、別の光景が割り込んでくる。
──暗い廊下。
剥がれかけた壁紙。
足元に散らばる割れたガラス。
懐中電灯の光が床を這い、たしかに“誰かの影”が動いた。
呼吸が止まる。
見たことがあるはずのない“旧館の内部”が、まるで記憶の底から浮かび上がるようにして現れた。
「玲奈!」
透子の声が遠く聞こえる。
私はソファの背に手をつき、息を荒げながら、やっとの思いで声を絞り出した。
「……何らかの……研究施設だったのでは……」
先輩の表情が固まる。
その顔には、あの生徒会長らしからぬ驚愕の色が浮かんでいた。
「……菓子を食べ、茶を飲むだけの集まりじゃなかったわけか」
低く、慎重な声。
そこにあるのは、警戒と、ほんのわずかな──恐れ。
私は頭を押さえた。
指先が震える。
痛みはまだ残っていたが、それよりも、脳裏に焼きついた映像のほうがこわかった。
「……旧館では、何が行われてたんですか?」
問いかける声はかすれていた。
先輩はしばらく私を見つめたまま、深く息を吐いた。
そして、少しだけ視線をやわらげる。
「……まぁ座れよ。ひどい顔色をしてるぞ」
私は透子に支えられながら、そっとソファに腰を下ろす。
そのとき、先輩は戸棚のほうに歩み寄り、中にあるティーセットに手を伸ばした。
ポットから湯気が立ちのぼり、茶葉から成分がにじみ出し、やがて琥珀色の液体が静かにカップを満たしていく。
柑橘の皮を思わせる、上品なアールグレイの香気。
それが部屋の空気に溶ける。
私は、ふと息を吸い込んだ瞬間、その香りがどれほど繊細で高級なものかを悟った。
茶葉の艶と香りが、まるで磨かれた銀器のように澄んでいる。
「手負いの獣を狩っても風情に欠ける」
先輩はカップを私の前に置いた。
白磁のカップの中で、紅茶の表面がかすかに揺れ、淡い光を映していた。
「……ありがとう、ございます」
私の声は震えていたが、先輩は包みこむような声で返す。
「落ちつけ。話はそれからでも遅くない」
その声には、人間らしい温度があった。
しかし、そのまなざしの奥には、まだ何かを測るような冷たい光が残っている。
私は、指先でカップの底を支えながら、ひとつの確信を得ていた。
──この人は、知っている。
旧館で、何が起きたのかを。
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