3-3 硝子の約束

 放課後の光は、すでに橙から赤紫へと移ろいかけていた。

 私の部屋の窓から差し込む夕陽が、机の上の書類やノートの端を静かに照らしている。外からは運動部のかけ声が聞こえ、それもしだいに遠ざかっていく。

 日が沈みきる前の、あの独特の静けさが部屋を包みこんでいた。


 私はベッドに腰を下ろし、手のなかで旧館の写真を見つめていた。

 どこかで拾った古い資料の断片。その写真には、誰もいない廊下と、その奥に開け放たれた扉が写っている。そこに、ほんの影のようなものが見えた気がして、胸がざわめく。

 何度見ても、それが誰なのかはわからない。

 それでも、目を離せなかった。


「……玲奈?」


 声に顔を上げると、透子がティーカップをふたつ手にして部屋に入ってきた。

 湯気の立つ紅茶の香りがふんわりと漂う。透子は私の隣に腰を下ろし、静かにカップを手渡した。


「ありがとう」


 私は受け取り、口をつける。

 紅茶の渋みが舌に残り、胸の奥をゆっくりと温めていった。


 しばらく無言の時間が流れた。

 時計の秒針が部屋に小さく響いて、外の風が窓をわずかに揺らす。

 私は視線を落としたまま、言葉を探していた。

 そして、ふいにその沈黙を破るように言った。


「……私ね。旧館の謎を、どうしても解かなきゃいけない気がするの」


 透子の手が、ぴくりと動いた。

 カップの中で紅茶が波うつ。

 彼女はゆっくりと私を見つめた。


「どうして、そんなこと……?」


「わかんない。でも、胸の奥に何かがあるの。誰かの声みたいなもの。『行かなきゃいけない』って、ずっと響いてる」


 声が震える。

 透子はしばらく黙っていたけど、やがて紅茶を置いて、真剣な顔で言った。


「……やめようよ、玲奈。もうあんなとこに行くのは」


 私は驚いて透子を見た。

 彼女がここまで強い調子で言うのは珍しい。ふだんの透子は穏やかで、私が何をしてもただ笑って受け入れてくれるタイプだった。だからこそ、その拒絶の響きが胸に残った。


「玲奈のことが心配なの」


 透子はうつむいたまま、絞り出すように言った。


「旧館って、何かがおかしい。ふつうに考えてあんな不気味なところ近づくべきじゃないよ。……わたし、玲奈に何かあったりしたら、やだよ」


 私は答えられなかった。

 透子の指が、そっと私の手を握る。その手はすこし冷たくて、震えていた。

 彼女の声には、ほんとうに“怖い”という感情が混じっていた。


 私はじっくりとその手を見つめた。

 透子といっしょに過ごす時間は、何より穏やかで、楽しかった。

 それは、嘘じゃない。

 でも――胸の奥で、もうひとつの声がささやく。

 このままではいけない、と。


 私は笑みをつくる。


「でもね、それだけじゃ、足りない気がするの。旧館の“少女の幽霊”を調べなきゃいけない。あの子のことを、知らなくちゃいけない気がするの」


 透子の顔に影が差した。


「“少女の幽霊”……。玲奈、本気で言ってるの?」


「うん。本気。……私、あの子を放っておけない」


 透子は唇を噛み、何か言いかけてやめた。

 その瞳の奥に、複雑な感情が渦を巻いているのがわかった。


「……調べるって言っても、どうするの?」


「蘭先輩に会いに行く」


 私は即答した。


「旧館の調査を正式に認めてもらう。あの人なら、何か知ってるはず」


「黒須先輩に……?」


 透子は目を丸くする。


「玲奈、あの人は――」


「わかってる。でも、避けてばかりじゃ何も変わらない。彼女に会って、確かめたいの。学院も、旧館も、そして……私のことも」


 穏やかに、けれど力強くそう言った。

 透子はしばらく何も言わなかった。

 その沈黙が、部屋の空気をゆっくりと締めつけていく。

 やがて彼女は、静かに息を吐いて軽く顔を持ち上げた。


「……玲奈がそう言うなら、止められないね」


「透子……」


「だって、わたしたちは――」


 透子は小さく笑い、私の手を握り返した。

 その指先には、決意と諦めが同居している。

 彼女はゆっくりと顔を上げて、私をまっすぐ見つめた。



 その通りだ。


 怪談研究会は発足からいままで、私と透子のふたりだけの同好会だ。

 それなのに。


 その言葉で、私の胸はぐっと気圧が下がったように詰まった。

 目の奥がじんわりと熱くなる。


 窓の外では、最後の陽が沈もうとしていた。

 光の残滓がカーテンを透かし、二人の影を重ねあわせる。


「ありがとう、透子」


「もう、しょうがないなあ……ほんとに」


 ふたりの笑い声が、薄暗い部屋のなかに溶けていく。

 それは、ほんの短い時間の幸福だった。

 けどその瞬間のぬくもりが、私の胸の奥にしっかりと刻まれていた。


 机の上で、カップの紅茶が冷えていく。

 その静けさのなかで、私の視線は再び写真へと戻った。

 旧館の暗い廊下。その奥で、光の粒のように霞む小さな影が幻のように見えた。


 ――あの子は、いったい。


 私はその問いを胸の奥で繰り返しながら、旧館探索への決意を固めていった。

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