3-2 眠りのしるし

 白い光が、まぶたの裏ににじんでいた。

 私は保健室のベッドの上に横たわりながら、ぼんやりと天井を見つめていた。蛍光灯の光は少しだけ黄ばんでいて、長く点けられたままの古びた熱を感じさせる。壁には古い時計がかかっていて、針が静かに音を刻むたび、現実の輪郭がゆっくりと戻ってくるようだった。


 カーテン越しに射し込む夕方の光がやわらかく揺れて、消毒液と洗剤の混ざった匂いが鼻の奥をくすぐる。窓の外では、遠くで鳴る鐘の音が風に混じる。頭の奥で、まだざらついたノイズのような痛みがくすぶっていた。


「――もう、落ちついた?」


 低く穏やかな声が、すぐそばから届いた。

 霞先生が、ベッドの脇の椅子に腰かけていた。白衣の袖口が少しだけ光を反射して、ゆらりと揺れた。その横顔はいつものように優しいけど、どこか影を帯びて見える。


「はい……少しだけ、頭が痛いです。でも、だいぶましになりました」


「そう。無理はしないでね。ただでさえ偏頭痛持ちなんだから、体は大切にしないと」


 先生は小さくほほ笑み、体温計をテーブルに戻した。それ以上は何も聞こうとしなかった。


 私はゆっくり息を吐いて、胸の奥に溜まったざらついた感情を整えようとした。

 どこかで見た、あの光。手を伸ばしても届かなかった指先の感覚が、まだ皮膚の裏側に残っている。

 あれが夢なのか現実なのか、今ではもう曖昧だ。たしかなのは、心の奥にぽっかりと穴が開いたような喪失感だけだった。


 沈黙が続いたあと、私はふと口を開いた。


「先生は、どうして先生になろうと思ったんですか?」


 自分でも意図のわからない質問だった。けれど、その答えが気になりもする。

 先生は少しだけ目を見開いて、天井の方に視線をやった。

 時計の針の音が、再び部屋を満たす。


「……そうね」


 先生は一呼吸置いてから、ゆっくりと答えた。


「人を、救いたかったから――かな」


 私は瞬きをした。

 その言葉はあまりにもまっすぐで、どこか芝居じみてさえ聞こえた。だけど、その声音にわずかな震えが混じっていて、それが本心の断片であることを示していた。


「なんだか……立派ですね」


 私は素朴な感想を告げる。


「でも、先生らしいです」


「立派なんてことはないのよ」


 先生は首を振った。


「結局、私にできるのは、誰かの痛みに寄り添うことだけ。治すことなんて、たぶん誰にもできないの」


 私はそれを聞きながら、胸の奥が締めつけられた。

 先生の言葉が、どこか懐かしく響く。

 まるで以前にも同じ言葉を、誰かに言われたことがあるような気がする。だけど、思い出そうとすると、記憶の表面がざらざらと崩れていく。


 少しの沈黙のあと、私はまた口を開いた。


「……先生は、今、幸せですか?」


 その瞬間、先生の表情がかすかに固まった。

 光の加減でそう見えただけかもしれない。けれど、その瞳に、深く沈んだ悲しみのような色が宿っていた。

 先生は答えず、ただ小さく息を吸って、私を見つめた。

 そして、ゆっくりとそのまま言葉を返した。


「――玲奈さんは、どう?」


 私は言葉に詰まった。

 胸の奥がざわめき、答えを探すたびに霧のようなものが立ちこめていく。


「わかりません……」


 ようやくそれだけを言うと、先生はふっと目を細めた。


「でも、すごく楽しい気はします。透子と話したり、部誌の編集をしたり……そういう時間は、ほんとうに楽しいです」


「楽しいなら。それは、きっといいことね」


 先生はほほ笑んだけど、そのほほ笑みはどこか痛々しく、どこにも届かないような遠さがあった。

 私は視線を逸らせずに、その表情を見つめた。

 胸の奥で、何かがひっそりとひび割れるような音がした。


「それでも、なぜか“幽霊”のことを調べなきゃいけない気がするんです。……そこに何か大事なものがあるような気がして」


 先生は、目を伏せた。

 白衣の袖口が、わずかに光を反射して揺れる。

 そして静かに言った。


「――ほんとうに、あなたがそう望むなら。いつでも先生を頼ってね。もしかしたら、力になれるかも」


 その声は穏やかだったが、どこか決定的な響きを含んでいた。

 私はその意味を測りかねて、先生を見上げた。

 しかし先生はもう、何も続けなかった。ただ、そっとベッドのシーツを整え、私の髪を指先で撫でた。


「もうすこし、休みなさい。心に負担をかけすぎたわ」


 私は目を閉じた。

 先生の指先のぬくもりが、ゆっくりと意識を溶かしていく。

 窓の外では、風がカーテンを揺らし、遠くで誰かの笑い声が響いた。

 それがどこから聞こえるのかわからないまま、私はまぶたの裏に広がる光の模様を見つめていた。


 白い。

 それはいつか見た光と、どこか似ていた。

 ただし、今度は恐ろしくはなかった。

 やわらかく、あたたかく、どこか懐かしい。


 先生の言葉が、遠ざかる意識の底で反響する。


 胸を衝かれて息がふっと漏れる。

 それが嗚咽なのか安堵なのか、自分でもわからないまま。

 やがて光がすべての輪郭を優しく包み込み、音もにおいも遠ざかっていった。


 静かな眠りが訪れる。

 その眠りの底に、まだ見ぬ真実のかけらが、かすかに瞬いていた。

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