???
廊下の奥は、もう学院の面影なんて欠片もなかった。
剥き出しの配線、砕けた観察窓、そして壁に残る手書きの数式。
ここが――黎明心理学研究機構の心臓部だったのだと、柚は直感で理解した。
懐中電灯を消し、ノートパソコンを膝に置く。
闇の中、液晶の光だけが静かに柚の横顔を照らした。
キーボードを叩くたび、埃が舞い、古い機械が低く唸る。
「さぁ、見せてもらおうか。黎明の幽霊さんたちの足跡を」
指先が踊るように動き、柚の口元には軽い笑みが浮かぶ。
この緊張感、この危うさ――まるで違法な遊戯の最終ステージ。
だが、彼女にとってはその方が落ちつく。
アクセスが通る。
まだ残置されていた研究所の古いデータベースが、彼女のプログラムに反応して解凍をはじめた。
画面に流れる無数の英数字。
> "Reimei_Psychology_Lab_Record_Access_Granted"
> "Subject Data Syncing..."
「……うそ、ほんとに動いた」
思わず小さく笑ってしまう。
暗号化が破られた瞬間、古いログファイルが次々と開かれた。
そのなかで、ひときわ柚の目を引いたファイルがひとつ。
“被験体L群記録/個体識別コード:Y-01”
柚は文章を読み上げながら、さらに深く潜っていく。
「被験体群A/意識再帰実験」
「主要担当:Dr.M」
“Dr.M”。
それ以上の情報は伏せられていた。
でも、どこかで見た筆跡。
柚は、胸の奥でぞわりと何かが動くのを感じた。
スクロールを続ける。
>XXXX年4月28日 14:52
>第一期先行被験者Y-01が、
>第三観測室にて急性意識崩壊および生命維持機能停止を確認。
指が止まった。
光に照らされた柚の瞳に、ほんの一瞬、焦点が合わなくなる。
自分の呼吸が、妙に大きく響いた。
“Y-01”――
“生命維持機能停止を確認”――
画面の端に、小さく写真が挿入されていた。
最初はただの資料の一つだと思った。
フィルム特有のざらつき、照明の弱い部屋、
実験椅子に座らされた少女の姿。
少女は、頭にいくつもの電極を装着され、
肩をすぼめて、暗がりの中で静かにうつむいている。
顔の上半分は影に沈んでいて、
目の光だけがかすかに見て取れた。
その影の落ちた顔を見た瞬間、
意図しない声が漏れ出ていた。
「……え?」
違和感。
理由のわからないざわりとした感覚が胸の奥をかすった。
少女の髪の色。
少し明るい栗色。
光の角度で揺れる毛束の癖。
頬のライン。
肩の細さ。
耳の形。
――見たことがある。
柚は無意識に画面へ顔を寄せた。
呼吸が浅くなる。
「……何これ……」
ひとつずつ特徴を確認するたびに、
胸の奥に押し込められていた“何か”が、
少しずつ動き出す。
光を受けて細く揺れる髪の毛先。
影の中でかすかに震える肩。
見えそうで見えない少女の表情。
そのひとつひとつが――
――自分によく似ている。
そんな軽い感想で終わるはずだった。
終わるはずだったのに、終わらなかった。
目が離せなかった。
柚は思わず、手で自分の髪を掴む。
資料の少女の髪の癖と、
自分の髪の癖が“同じ形”をしている。
この時点で、胸の奥の何かが嫌な音を立てた。
「やめてよ……こういうの」
苦笑まじりに呟いた声は、ひどく震えていた。
次の画像にスクロールした瞬間、
“被験者:Y-01”の正面から撮られた写真が目に入る。
呼吸が止まった。
目の形。
眠たげな一重の目。
伏せられたときのまつげの落ち方。
それはどう見ても――
喉の奥が音もなく締めつけられ、
肺の中の空気がひとつ残らず抜け落ちる。
「……嘘、でしょ……?」
写真の少女が、こちらを見つめてる。
少女は幼く、虚ろな瞳をしているが。
鏡を見るように、柚自身がそこに座っているように見えた。
幼いほほ。
栄養の足りない細い腕。
あのころからずっと変わらない、独特な髪の癖。
そのすべてが、
自分自身の“過去”の形をしていた。
逃げるようにモニターから視線をそらす。
しかし、視界の端に映る少女の姿が、
まぶたの裏に張りついたように消えない。
やがて、かすれた笑いが漏れた。
「……参ったなぁ……」
声は震えていた。
画面の光が、その光景を一瞬だけ照らし、また闇に溶けた。
柚は顔を上げ、深く息を吸い込む。
その胸の奥に、今まで知らなかった痛みが広がっていく。
「死んでた、のか。……あたし」
パソコンのファンが、最後の呼吸のように短く回転し、止まった。
部屋は完全な闇に沈む。
柚は美術室のトルソーのように、もう微動だにすることはなかった。
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