2-9 帰還不能点
足音が、やけに響いていた。
旧館の奥――電灯は切れかかり、空気は乾き、足元のタイルは細かくひび割れている。
透子と私は、速足で奥に進む。
「……ここまで来たら、もう戻れないね」
透子の声は震えている。
その気持ちがわかるほど、柚の足跡は遠く、私は心が折れそうになる。
「こんな奥まで……」
廊下の突き当たりに、ぼんやりと光が漏れていた。
扉の隙間から、青白いパソコンの明かり。
私たちは顔を見あわせる。
「あそこだ」
息を整え、扉を押した。
重い音を立てて扉が開くと、そこには――柚がいた。
床に座り、ノートパソコンの画面を見つめている。
無数のファイルウィンドウが開かれ、英数字の羅列が走っている。
薄闇の中、彼女のほほを青い光が照らしている。
「柚……!」
私が声をかけた瞬間、扉が背後でバタンと閉まった。
思わず振り返る。
取っ手を引くけど、びくともしない。
内側からも、鍵がかかっているようだった。
「……閉じ込められた?」
私は透子と分断されて部屋に残される。
外にいる透子が扉を叩いて何かを叫んでいる。
柚は、こちらを振り向かない。
ただ、低く息を吐き、ディスプレイに目を固定したまま、ぼそりとつぶやく。
「……やっと、見つけた」
パチ、パチ、と指がキーボードを叩く音だけが響く。
何かが崩れていくような、胸の奥のざわめき。
私は一歩、二歩と柚に近づいた。
画面の中で、フォルダの名前が流れていく――
《黎明心理学研究機構/被験者データ》
「柚、それ……」
私が問いかけようとしたとき、彼女が小さく笑った。
「玲奈、ここにはたしかにすべてがあったよ」
その言葉が、不吉な鐘のように胸のなかで鳴る。
「いまはいいよ、柚。それにもう時間が――」
「平気。わかったんだ。ずっと探してた“答え”が」
――これは、触れてはいけないものだ。
パソコンの画面が一瞬、ちらついた。
ノイズ混じりに、映像のようなものが再生される。
白衣の人物たち。金属のベッド。
“黎明心理学研究機構”のロゴ。
柚の横顔が、笑っているのに――
その笑みの奥に、何かが壊れかけているのがわかった。
「柚……そのデータ、何を見てるの……?」
彼女は答えない。
ただ、目を見開いて、ディスプレイの一点を凝視している。
パソコンのファンの音が唸る。
彼女の肩が、わずかに震えていた。
私は、言葉を失った。
――あの画面のなかには、何が映ってるの?
柚が、ようやく口を開いた。
その声は、乾いた笑い声のように聞こえる。
「……私にできることがまだあるなら」
次の瞬間、私の胸の奥に、形容できない寒気が走った。
部屋の空気は、長い時間を閉じ込めていたように冷たかった。
蛍光灯は点いていない。
ただ一枚のディスプレイだけが、青白い光を放ち、そこに座る柚の横顔を浮かび上がらせていた。
「……柚?」
私が声をかけても、柚は振り向かない。
両手をキーボードの上に置いたまま、指先が震えている。
画面には意味のわからない文字列が、ひたすら打ち出されては消えていった。
その音だけが、時間を削るように部屋に響く。
私は恐怖に突き動かされるように、駆け寄る。
「柚、何して――」
ようやく柚が振り向いた。
その瞳には、私の姿が映ってなかった。
焦点は、どこか別の場所、あるいは別の時間を見ているようだった。
「玲奈、よく聞いて」
その声は、ひどく遠い。
水の底から届くような、掠れた声だった。
「……何も聞くな。何も見るな。何も知ろうとするな」
心臓が、一瞬止まる。
柚の髪の先が、淡く、白く、光りはじめていた。
まるで静電気のように揺らめき、部屋の影を照らしていく。
「旧館には、“何もない”。……私は、はじめからいなかった」
「柚、何を言ってるの?」
手を伸ばす。
けどその手が触れようとした瞬間、柚の肩が透けていった。
皮膚の下から光があふれ、指先が空気のなかに溶けていく。
「玲奈」
その声は、震えていた。
「玲奈は……いま、幸せか?」
私は言葉を失う。
答えを探そうとしても、声にならない。
問いの意味が、あまりに突然で、あまりに重かった。
柚はほほ笑もうとした。
けれど、その表情は哀しみに歪んでいる。
「それでも――真実が知りたいなら――」
その続きを聞く前に、世界が音を失った。
壁が、床が、天井が、白くほころんでいく。
ディスプレイの光と柚の身体の光が混ざりあい、境界が溶ける。
私はその光の渦のなかで、かろうじて自分の輪郭を保とうとした。
――音が、逆流する。
足音。声。風。
すべてが巻き戻っていく。
柚の姿が光に溶け、消えた。
私の視界も、白にのまれていく。
そして、最後に――
誰かの声が、遠くで響いた。
> 「リターン・プロトコル、起動」
世界は完全に、白に塗りつぶされた。
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