2-8 The Edge of Abyss

 廊下を進むにつれ、空気が変わっていくのがわかった。

 閉鎖空間にはびこる黴と、金属の錆びたにおい。

 学院の建物で嗅いだことのない――もっと、冷たくて、無機的な香りだった。


「……もう明らかに校舎って雰囲気じゃないね」

 

 透子がささやく。

 私はライトを壁に向け、うっすら残るプレートを照らした。


《黎明心理学研究機構・第七実験棟》


 息が止まった。

“黎明心理学研究機構”。

 学院と何らかの関係がある学術機関。

 その核心に踏み込もうとしている。


「……学院の前身になった機関とか?」


 透子がつぶやく。

 私は首を横に振った。

 

「違うと思う。少なくとも、“学校”ではありえない。――これは、研究施設よ」


 錆びた扉を押し開けて中に入ると、その当時から時が止まってしまったような部屋だった。

 壁際には古い金属製の机。

 崩れかけた棚に、綴じられたファイルがいくつも残っている。

 その背表紙には、手書きでこう記されていた。


《被験体群A/反応観察記録》

《感覚遮断下の行動観測》

《対象L—第12実験》


 ページをめくる指が震える。

 紙は黄ばみ、ところどころ黒ずんでいる。

 だけど、インクの文字はまだ読めた。


> ……被験体は24時間後、自己認識の一部を喪失。

> 言語野における応答遅延は平均3.2秒。

> 実験主任は次段階として「映像刺激による補正」を提案。


「なに、これ……」

 

 透子の声が掠れている。

 ページの端には、赤いペンで走り書きがある。


> “被験体R-07、異常な夢の共有を報告”

> “視覚刺激:花弁・檻・白色”


 透子が机の奥を調べ、ほこりまみれのファイルを引き出した。


「玲奈、これ見て」

 

 そこに挟まれていたのは、古びた写真。

 白衣を着た数人の研究者たちが、何かを囲んでいる。

 中央のベッドには、幼い少女が横たわっていた。

 頭に機械のようなものを装着されている。

 顔は隠れていて、判別できない。

 だが、その隣のプレートに書かれた文字が読めた。


《実験対象:R-07》


 胸がひやりと冷える。

 透子の手が震えている。


 私は言葉を切った。

 喉の奥が、どうしても声を拒んだ。


 写真を見つめたまま、私と透子はしばらく動けなかった。

 ほこりの舞う空間のなかで、時間が止まったみたいに静かだった。


 透子が、かすれた声で言う。


「これ……大丈夫な研究だよね?」


 私は無言で答える。胸の奥が冷たく、でも、どこか熱い。


「黎明の記録……こんな形で、残ってたなんて」


 透子は指先で紙束をなぞる。

 その動きはまるで、起こしてはいけない龍の鱗でも撫でるようで。


「私たち、もしかして……とんでもないこと、見つけちゃったのかも」


 透子が震える声で笑う。

 私はその横顔を見つめながら、笑い返そうとしたけれど――

 うまく笑えなかった。


「うん……でも、これがほんとのことなら、知らなきゃいけないと思う」


 透子が覚悟を決めたように眉を吊り上げる。

 恐怖と興奮が、同じ温度で混ざりあっていた。

 この薄暗い部屋のなかで、私たちはただ、見つけてしまった“真実の重み”に耐えかねていた


 外ではまだ、文化祭の喧噪が遠くかすかに響いている。

 あの明るい世界とは、まるで別の場所に来てしまったみたいだ。


 私は胸の奥で、なにかが冷たく軋むのを感じた。

 ――けれど、その音の奥に、ほんの少しだけ、たしかな手応えがあった。

 恐ろしいけれど、これが進展なのだ。

 深淵の入口に、私たちはたどり着いてしまった。

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