2-7 Into the Depth

 私たちは、息を切らせながら学院の裏手を駆け抜けた。

 柚が先頭で、透子がそのすぐ後ろ。私は少し遅れて、後ろを警戒しながらふたりを追う。

 背後からはまだドラムの爆音が聞こえていた。叫び声と笑い声、混ざり合う熱気。

 ――成功だ。誰もがライブに気を奪われてる。


「見た? 蘭先輩の顔!」


 柚が振り返って、にやりと笑った。


「完全にブチギレモード。あと十五分は動けないね」


 透子も笑っていた。あの穏やかな透子が、珍しく子どものような表情をして。


「ほんとにやるなんて思わなかった……!」


「言ったでしょ? 祭りには花火がつきものだってさ」


 笑いながら、私も息を整える。

 胸の奥が熱い。

 恐怖よりも、今は――何かを掴めそうな確信のほうが強かった。


 旧館へ続く石畳の道は、人の気配がなく、音も吸い込むように静かだった。

 文化祭のざわめきが遠ざかるにつれ、空気の密度が変わっていく。

 森の木々の葉擦れが、まるでひそひそ話のように聞こえた。


「……ここから先、完全に監視外」


 柚がそう言って立ち止まった。


 旧館は、学院の裏庭のさらに奥、

 木々の影が押し寄せて陽の光を拒むような場所にぽつんと佇んでいた。

 現役の校舎とは違う色をした、沈黙した建物。


 近づくにつれ、空気のにおいが変わる。

 草の青い香りが薄れ、代わりに淀んだ空気と金属の錆びたにおいが鼻をついた。


 石畳の終点に、重たい鉄の扉があった。


 森の影を吸い込んだような黒。

 表面の塗装はところどころ剥がれ、

 下地の鉄が赤茶けた錆を滲ませている。


 風が吹くたび、旧館のどこかの扉の蝶番が鳴いていた。

 その音は、人がいなくなった建物がたてる「呼吸」のように思えた。


「……ほんとに、ここ……入るの?」


 透子の声は小さかったけど、その瞳はしっかりと扉を見据えていた。

 恐怖よりも、なぜか吸い寄せられるような光が宿っていた。


 私は無意識に息をのむ。


 触れられていないはずの扉の表面が、

 光の角度で“脈動している”ように見えた。


 柚はそんな気配にも怯えず、

 むしろ楽しげに扉へ歩み寄ると、冷たそうな取っ手へ手をかけた。


「じゃ、開けるよ。

 ――三人の冒険、ここから先は完全に秘密ね」


 柚がにやりと笑う。


 透子は唇をきゅっと結び、

 私は深呼吸してうなずいた。


 柚が力を込める。


 鉄扉は、武士が仁王立ちするように、最初の一瞬だけ動かなかった。

 空気がひきつれるような、重たい抵抗。


 だけど次の瞬間――


 ギィィィ……ッ


 長い年月の錆が悲鳴を上げるように音を立て、

 扉がゆっくりと開いた。


 その隙間から、

 黒い空気があふれ出してくるように感じた。


 光の届かない廊下。

 床に溜まった冷気が、足元に絡みつく。

 懐中電灯を向けても、光は奥へ沈み込むだけで反射しない。


 旧館の内側は、

 音のない井戸の底のように静まり返っていた。


「……なんか……冷たい」


 透子が自分の身体を抱く。


 たしかに、扉を境にして気温が一気に下がった。

 中秋の森は陽光に照らされてるというのに、

 扉の向こうは冬の廃墟のように冷たい。


 柚が先に足を踏み入れる。


「行こう。

 ここから先――ぜったい、戻れないよ」


 冗談めかした声なのに、

 どこか警告のように響いた。


 私と透子は視線を交わし、

 その黒い口のような入口へ、一歩踏み出した。


 背後で、校庭の熱気が遠ざかる。

 笑い声も、ドラムの音も聞こえなくなる。


 扉がゆっくり閉まる。


 外界の光が細い線になり、

 最後にひとかけらだけ床へ落ちて――


 ぱたりと消えた。


 透子が一歩、足を踏み入れかけて立ち止まる。


「なんか……空気が違う。ここだけ冷たい」


「気圧のせいじゃない?」


 柚は軽く言うけれど、その声もほんの少し、震えていた。


 私たちは顔を見あわせ、懐中電灯をつける。

 光が壁をなぞると、

 薄く剥がれかけたペンキの下に“黎明心理学研究機構附属観察棟”の文字が浮かんだ。

 前に見たときよりも、何かが更新されているように感じた。

 見覚えのある廊下なのに、配置が微妙に違う。

 ――いや、違っているはずがないのに。


「玲奈?」


 透子の声で我に返る。


「大丈夫?」


「うん……ちょっと、頭がズキッとしただけ」


 片頭痛の前触れ。

 でも、今は立ち止まっている場合じゃない。


 三人でゆっくりと歩を進める。

 古いタイルが、足音に合わせて低くきしむ。

 光の円が照らし出すのは、無数の扉。

 どれも“被験体室”、“観察記録室”、“記憶走査室”と物騒な表札が掛かっている。


 ――“記憶走査”。

 どこかで聞いた言葉だ。

 頭の奥で、遠いノイズがざらつく。

 耳鳴り。いや、何かの“記録音”のような。


「玲奈?」


 透子の声が、遠くで反響した。

 柚が前を向いたまま言う。


「まだ奥にあるはず。中枢端末――黎明の記録が残ってる場所」


 小さな背中が、頼もしく見える。

 けれどその姿が、二重に見えてしまうような既視感が襲う。

 ――この光景、私は……前にも見た気がする。

 柚が前を歩き、透子が振り返って、私が頭を押さえて……。


 時間の輪郭がにじむ。

 手の中の懐中電灯の灯りが、一瞬だけ明滅した。


「……玲奈?」


 透子の声がもう一度響いたとき、

 私は思わずささやいていた。


「……また、ここに来たんだ」


 二人が同時に振り返る。

 柚の目が、かすかに見開かれた。

 何かを言おうとした瞬間――

 廊下の奥で、機械の起動音のような低い唸りが響いた。


「誰か、いる……?」


 透子の声が震える。


 柚が短く息をのみ、

 私の腕を掴んだ。


「行こう。――“中枢室”が、呼んでる」


 扉の向こう。

 外壁が落ちているのか、明かり窓があるのか、暗闇にはしごのような光が降りていた。

 それが、まるで私たちを“再び”迎え入れるように見えた。


 旧館へ続く通路を駆け抜けて、私たちはようやく足を止めた。

 静まり返った廊下。壁には古びた掲示が斜めに残っていて、どれも年月の埃をかぶっている。

 床板を踏むたび、細かいほこりが舞い、ライトの光の筋に漂う。


「……ここから、どうする?」

 

 透子が低く問う。

 私はライトの先を辿りながら答える。


「まずは記録室を目指す。旧研究棟の図面では、突き当たりを右に曲がったところにあるはず」


 そのとき、柚が足を止めた。

 表情が、いつになく真剣だ。


「玲奈。――ここで別れよう」


「……え?」


 唐突な言葉に、私の思考が停止する。

 柚は私と透子のほうへ振り返る。瞳の奥は、冷たい光を帯びている。


「私なら、この端末で古いデータを引き出せる。文献のほうは、ふたりに任せる」


「そんなの、危ないよ」


 私は即座に反論する。


「この建物、どんな仕掛けが残ってるかもわからないし。柚がひとりで行くなんて――」


「わかってる。でも、これは時間との勝負だ」


 柚は小さく笑った。その笑みは、妙に静かで、覚悟を孕んでいる。


「バックアップされた研究記録は、サーバ室の奥にあるはず。私が行けば、手がかりを掴める」


 私は唇を噛む。

 反論の言葉が喉に引っかかったまま、出てこない。

 透子も困ったように私を見て、目で問いかけてきた。

 ――止める? 行かせる?


 柚が静かに続ける。


「玲奈。もしここにデータが残ってるなら、それを確かめるのは、私の役目だと思う」


「……」


 何かが胸の奥で軋んだ。

 それが何に対する不安なのか、私にもわからない。


「わかった」


 深く息を吸い、柚を見据える。


「でも、十五分経っても戻らなかったら、私たちが探しに行く。それでいい?」


 柚は口角を上げる。


「約束する。……気をつけて」


 それだけ言うと、柚は踵を返し、薄暗い通路を駆けていった。

 彼女のライトが闇に溶け、やがて見えなくなる。


 残された空気は、ひどく静かだった。

 私は握っていた懐中電灯を持ちなおし、透子のほうを向く。


「……行こう。文献室はこっち」


 そう言いながらも、瞳に焼きついた柚の姿が離れなかった。

 胸の奥に、ざらつく不安が広がっていく。

 まるで、光の届かない“深み”の底へ沈んでいくように。

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