第二章 心入者(しんにゅうしゃ)

2-1 弁護士を呼んでください

 目を覚ました瞬間、私は――警察に突き出されたのかと思った。


 薄暗い部屋。

 真っ白な机。

 そして正面には、腕を組んだ蘭先輩。


 壁には時計がひとつ。

 窓にはカーテン。

 そしてドアもひとつだけ、たぶん逃げ道はない。


 ……ここはどこ?

 ――いや、知ってる。

“生徒指導室”だ。

 ただし、雰囲気はどう見ても取調室である。


「椿野」


 低く、静かで、妙に響く声。

 先輩が机の向こうから私を見つめていた。

 その視線だけで、背筋が伸びる。


「……おはようございます」


 とりあえず、社会的に安全そうなあいさつを選んだ。


 先輩はため息をつき、

 机の上に置かれたフォルダを「ぱたん」と閉じる。

 そこには“立入禁止区域侵入報告書”と書かれていた。


「お前は、自分が何をしたか分かってるのか?」


「……えーと、夜風を浴びに?」


「屋上のがまだいい空気が吸えるぞ?」


「……静かな場所で瞑想をしたくて」


「もう2、3日ここで瞑想してみるか?」


 先輩のまぶたがピク、と動いた。

 ……怒ってる。たぶん。


「お前たちが入ったあの区域は立入禁止だ。

 それはお前たちの身の安全を守るためなんだよ……わかるな?」


「一本背負いで投げ飛ばされたら危険ですもんね」


「あん?」


「いえ、なんでも」


 沈黙。

 時計の秒針の音だけが「カチ、カチ」と響く。

 こういう時、何を言えば正解になるんだろう。

 さっきから間違った選択肢を選び続けてる気がする。


「透子は……どうなりました?」


「あっちは昨日のうちにたっぷり絞ったよ」


「いまはカピカピで床に転がってますね……」


「お前も直そうなる予定だ」


「重要参考人って水はもらえるんでしたっけ?」


「現行犯はもらえんかもしれんな」


 先輩はこめかみを押さえた。

 完璧人間でも、頭痛には勝てないらしい。


 彼女は椅子から立ち上がり、私のほうへ歩み寄る。

 ローファーの音が、静かな部屋に響いた。

 その足取りが近づくたび、空気が張りつめる。


「お前が無事だったのは、運がよかっただけだ。

 ……次は、ないぞ」


 まっすぐに見下ろされる。

 瞳の奥には怒りではなく、むしろ――哀しみのような影。

 それが一瞬、夜の旧館の冷たい光景と重なった。


「蘭先輩……」


「何ですか」


「心配してくれたんですか?」


「……あ゛?」


「いや、ほら、死んだら“報告書”が増えちゃいますもんね」


「――お前、ほんとうに反省してるか?」


「はい……もう少しで真実が掴めたので……」


 蘭先輩の肩が小さく震えた。

 ……笑ってる? いや、それは希望的観測がすぎるか。


「次やったら、停学じゃすまんぞ」


「いま退学じゃないんですか!?」


「いい案だな。いまにも気が変わりそうだ」


「ありがとうございます!!」


「二度と旧館には近づくなよ」


「はい。次からは足取りも残しません」 


 机を「ドン」と叩く音がした。

 その反射で、私は椅子から半分浮いた。


 先輩は深く息を吸ってから、


「……はあ」


 と長いため息を落とした。


 その顔は呆れと、ほんの少しの安堵でできていた。


「はやく出ていけ」


 私は慌てて椅子を引き、ドアへ向かった。

 その背中に、先輩の声が追いかけてくる。


「――椿野」


「はい!」


「お前、本当に……“あの部屋”で何も見てないんだな?」


 振り返ると、先輩の表情はどこか曇っているような、あの夜の、涙に似た影を思い起こさせる。


「……何も、見てません」


 そう答えると、先輩は満足そうに、静かにまぶたを閉じた。


 けれど――私の胸の奥では、

 あの夜の余韻が、まだうっすらと焼きついていた。

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