1-7 狩人の夜

 夜の旧館へ続く道は、ホラー映画の舞台のようだった。

 照明のようなものはなく、月明かりだけが私たちの影を長く伸ばしている。

 靴底が土を踏むたび、足音が目立って聞こえる。

 息をひそめても、自分の鼓動が耳の奥で鳴っている。


「ほんとに……入るの?」


 透子の声が、暗闇の中で少し震えていた。


「ここまで来たんだから。見るだけってのも、ね」


 そう言ってみたものの、自分の声もまた、どこか震えていた。


 旧館の扉は、昼間に見るよりもずっと重く感じた。

 錆びた取っ手を引くと、金属が擦れる鈍い音が鳴る。

 空気が変わった。

 長い間、誰も息をしていなかった場所みたいに、

 ほこりと薬品と、鉄のにおいが混ざりあっていた。


 懐中電灯の光を揺らしながら、私は廊下を照らした。

 床板は歪み、ところどころ沈んでいる。

 壁には古い掲示物の残骸、場所によっては血のような黒い染みが見える。


「ねえ……この部屋、何だろ?」


 私は、廊下の奥に続く扉を見つけた。

 他の扉より新しい。

 木枠だけが古く、そこに無理やり金属製の扉が取り付けられている。


「……ここ、開くかな」


 取っ手を引くと、音を立てて動いた。

 中から冷たい空気が流れ出てくる。

 埃が舞い、懐中電灯の光に細い粒子が浮かび上がった。


 中は、広く――そして、異様に静かだった。

 机と椅子がいくつも並び、壁際にはキャビネットが整然と並んでいる。

 だが、教室とは違う。

 机には配線の切れ端、モニターのフレーム、

 何かの実験装置のようなものが散乱していた。

 私たちの学校の施設に、こんな場所があるはずがない。


「研究室……みたいだね」


 透子がつぶやく。

 彼女の声が、広い空間で反響する。

 私は机の上のノートを一つ手に取った。

 ページの一部は焼け焦げ、端に黒いすすが残っている。

 そこには、見覚えのない文字列と、奇妙な表が並んでいた。


 被験体R-07/観察日:**月**日

 同調率:82%

 記録映像:鏡室内反応——安定


「……被験体?」


 声が震えた。

 その単語に、胸の奥がざらりと逆立つような感覚が走る。

 透子がのぞき込み、首を傾げた。


「これって……何の実験?」


「わかんない。でも、“鏡室”って書いてある。……鏡の間と関係あるのかな」


 私は言いながら、自分の喉が乾いていることに気づいた。

“鏡室”――その言葉に、何かが脳裏をかすめる。

 だけど、その輪郭を掴もうとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。


「玲奈!?」


 透子が肩に手を置く。

 痛みはすぐに引いたけど、心臓の鼓動だけが異様に早い。

 何か――見てはいけないものをのぞいたような感覚。


 そのときだった。

 廊下の奥で、蝶番が「ギィ」と鳴った。

 透子が反射的に懐中電灯を向ける。

 だが、光の先には何もいない。

 ほこりの粒だけが宙に漂っていた。


「風、だよね……?」


 透子の声が、かすかに震える。

 私は無言でうなずいたけど、胸の奥では違う確信があった。

“誰かがいた”。

 そんな感覚だけが、はっきりと残る。


 再び部屋の奥へと光を向けると、壁にかかった鉄製のプレートが目に入った。

 汚れを指で擦ると、錆びた文字が現れる。


 **黎明心理学研究機構 附属観察棟**


 その下に、刻印のようなマーク。

 ふたつの細い円が重なりあって中心に点がある、幾何学的な紋章。

 見た瞬間、脳の奥がざわりと揺れた。

 覚えている――いや、知っている。

 そんな気がした。


「玲奈? 大丈夫?」


 透子の声が遠くに聞こえる。

 私はその印から目を離せなかった。


 すると突然、蛍光灯のひとつが「パチッ」と音を立てて光った。

 一瞬だけ、部屋全体が白く照らされる。

 その光の中で――机の奥、実験器具が詰め込まれた戸棚の手前で、何かの“影”が動いたように見えた。


「何で!? ここ電気通ってないはずなのに!」


「それより今、誰かいた!?」


 私たちは軽いパニックになって、おたがいの体を抱きしめた。

 さっき見た影の形は、どこか人間の輪郭をしていた。


 次の瞬間、廊下の方から、別の光が差し込む。

 ひときわ明るく輝く、強烈な線状の光。


「こんな時間に、こんな場所で、いったい何をしている?」


 声が響いた。

 静かで、けれど一瞬で空気を張り詰めさせる声。

 私たちは驚愕でおたがいの身体を抱きあう。

 振り返ると、そこに蘭先輩が立っていた。


 月明かりを背に、彼女の長い髪が銀色に光っている。

 しわひとつない完璧に整った制服。

 その立ち姿だけで、彼女がこの学園の“象徴”だとわかる。

 昼間、彼女が見せた穏やかなほほ笑みは、そこにはなかった。


「蘭先輩……」


 言葉を探すように口を開くと、先輩は静かに首を振った。


「立入禁止だと、言ったはずだが?」


 その声は怒りではなく、冷ややかな哀しみを帯びていた。


「待ってください、私たち――」


 透子が言いかけたその瞬間、先輩の懐中電灯の光がすっと地面に向けられた。

 闇に溶けるその姿が、一瞬で、認識できなくなった。

 まるで映像のフレームが飛んだように。


「――逃げよう」


 私がささやくと同時に、透子は床を蹴った。

 私たちは懐中電灯を握りしめ、扉の向こうへと駆け出した。


 廊下を走る。

 足音が、暗闇のなかに無限に響く。

 後ろを振り返ると、先輩の姿は――なかった。

 だけど次の瞬間、空気が震えた。


「背を向けるなと教わらなかったか?」


 声が、耳元でささやかれたように近かった。

 息が止まる。

 ありえない――瞬間移動でもしたみたいな。


「透子、走って!」


 私が叫ぶと、透子は階段の方へ駆け出した。

 私はその背中を追う。

 けれど、次の瞬間、冷たい風がほほを打った。

 何かが“通り抜けた”――いや、“先回りした”。


 どんな理屈かはわからないけど、先輩が階段の下に立っていた。

 息ひとつ乱さず、私たちを見上げている。

 その瞳は、光を反射して不気味に輝いていた。


「何が起こってるの?」


 透子の声が震える。

 先輩は一歩、また一歩と階段を上がってくる。

 その動きは滑るように速く、足音すらしなかった。


 私は透子の手を引いて、踵を返す。

 逃げ道を探す。

 けれど、旧館の廊下は迷路のように入り組んでいた。

 どこを曲がっても、同じようなドア、同じような影。


 そのとき、背中に風圧を感じた。

 振り返るよりも早く、視界が回転した。

 腕を掴まれ、床に叩きつけられる。


 息が詰まる。

 先輩の姿が、目の前にあった。

 

「……すまんな」


 その声が届いてくる前に、視界が闇に沈んだ。

 遠くで透子の悲鳴が響く。

 その音が途切れる直前、私はたしかに見た――

 蘭先輩の、まるで泣きそうな顔を。


 そして、すべてが途切れた。

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