1-2 旧館
夜の旧館は、昼間とはまるで別の生きもののようだ。
「……寒い」
透子が小さく肩をすくめ、自分の二の腕を抱いた。
ここから見える校庭の街灯は節電のために最小限しか点いておらず、闇の底で頼りなく明滅している。
風が木々の枝を揺らすざわめきだけが、波の音のように遠くの闇を渡ってくる。
私と透子は、たがいの懐中電灯の光だけを命綱に、人の気配が完全に死に絶えた校舎の廊下を進んでいた。
懐中電灯の光が薄いビームとなって伸び、舞い上がる白い埃の粒を無数に照らし出す。それはまるで、死んだ虫の群れのようにも見えた。
「……ほんとに、進むの?」
透子の声は震えていて、夜風にすぐに溶けてしまいそうだった。
「もちろん。
夜の旧館に“少女の霊”が現れるって噂、放課後に聞いたばっかじゃん。
ここで行かなきゃ、怪談研究会の名がすたるでしょ」
「……名っていっても、非公認だけど」
透子が弱々しく苦笑する。
私は努めて明るく笑って見せたが、胸の奥では警鐘が鳴り止まなかった。
夜の校舎を歩くことは慣れているはずなのに、今夜は空気が液体になってしまったようで。水底を歩いているように足が重い。
「学院の施設にしては……なんだか、変わってるね」
透子はきょろきょろと左右を確認する。
「うん。建てられた時期も不明らしいし……資料にも、意図的に消されたみたいに残ってないんだって」
まったくもって怪談におあつらえ向き。
「ねえ、変じゃない?
学校の建物なのに、廊下の造りが……」
私は光を左右に動かした。
床は温かみのある木材ではなく、病院を思わせる無機質なタイル。
コンクリートの壁には、剥き出しだった配管や配線の名残なのか、金属製のレール状の溝が何本も走っている。天井近くではダクトが重なり合い、低いすきま風の音が常にどこかで唸っていた。
そして何より異様だったのは、廊下の両側に等間隔で並ぶ金属扉だった。
扉にはそれぞれ部屋の分類を示す金属のプレートがあり、目線の高さにはワイヤー入りガラスの小窓がはめ込まれている。旧館には電気が通っていないため、窓の向こうは一様に暗く、こちらの姿だけが黒い鏡のようにぼんやりと映っていた。
「ここ、ほんとに教室があったのかな……」
「うーん……理科室とか、そういう特別棟かも」
そう口にしながらも、私自身、その説明に決定的な違和感を覚えていた。
ここは学び舎ではない。
まるで“何かを閉じ込めておく”ため、あるいは“何かを観察する”ための施設のようだ。
どこからか、ポーン、ポーンと水滴が落ちる音がして、それがまるで狂った時計のように、不規則なリズムで静寂を刻んでいた。
私は無意識に透子の手を握った。
彼女の指は死人のように冷たく、小刻みに震えていた。
「玲奈……戻らない? ここ、やっぱりおかしいよ」
「……だめ。せっかく来たんだから。もう少しだけ、奥を見てみよう」
好奇心だけではない。恐怖で足がすくみそうだからこそ、前に進むことでそれを振り払いたかった。
この廊下の突き当たりには、“鏡の間”と呼ばれる部屋がある――そう噂されていた。
そこには“少女の幽霊”が現れる。
学院で最も古く、そして最も近づいてはいけない場所。
懐中電灯の光がその先の扉を捉えた。
金属のプレートにかすれた黒字で部屋の名前が記してある。
「……“
透子がちょっとだけ後ずさりする。
私は彼女の手を、痛いくらいに強く握りなおした。
「行こう、透子」
その時だった。
闇の向こう、閉ざされた扉の奥で。
コン。
何かが鏡の表面に裏側から触れたような、硬質で冷たい音が、聞こえた気がした。
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