第一章 既視館(きしかん)

1-1 放課後の噂

 ​放課後の鐘の音が、誰もいない校舎の奥へと吸い込まれるように溶けていった。


 ​夕陽がブラインドの隙間から差し込み、教室の空気を琥珀色に染めている。舞い上がる埃さえも黄金色に光る静寂のなかで、私は愛用のメモ帳をパタン、と閉じた。


 今日の活動内容――旧館の調査。


 ​“怪談研究会”なんて大層な名前だけど、実態は私と透子、それにたまに顔を出す幽霊部員がひとり。


 あまりに学院が大きすぎる恩恵で、使われていない空き教室を部室として貸してもらっているものの、私がそこでしていることは、校内に漂う噂話を拾い集めることくらいだ。


「……ねえ、ほんとに行くの?」


 ​透子が私の机の横で、不安を隠せない声を漏らした。

 長いまつげの影がほほにすっと落ちて、細い首筋がかすかに震えている。

 夕陽に染まった黒髪は、触れればほどけそうな繊細さをまとっていた。


「夜の旧館で“少女の霊”が出るって話。聞いたでしょ?」


 私はカップに注がれた紅茶に口をつける。

 ダージリンの爽やかな香りが鼻腔に広がってくる。


「この学院の七不思議でも、目撃情報の数が桁違いなの。ただの噂にしては、あまりに多すぎる」


「……玲奈って、ほんとそういうの好きだよね」


 透子は呆れたように、それでいて諦めたようにため息まじりに笑った。


 その笑い方が、夕陽のせいかやけに儚く――ほんの一瞬、胸の奥がざわりとあわ立つ感覚を覚えた。


「怪談を信じてるわけじゃないんだけど……ただ、興味があるだけ」


 透子も紅茶のカップを手に取って口元に運ぶ。

 いつも透子が淹れてくれる紅茶は、茶葉も彼女が選んでいるらしい。


「自分でもうまく言えないんだけど、なんだか調べずにはいられないんだよね……」


「わたしには、それが七不思議のひとつよ」


 透子は椅子から立ち上がり、肩に食い込んでいた鞄の紐を直した。


「でも……玲奈が行くなら、わたしも行く」


「透子、ほんとは怪談なんて興味ないでしょ。無理しなくていいのに」


「ないけど……玲奈がひとりで行くのは、心配だから」


 ​私は苦笑する。


 そういうところ、ずるいと思う。


 ほんとは誰よりもこわがりなくせに、私を置いて帰るという選択肢はないのだ。


 ​窓の外で、夕日がいよいよ傾いていく。


 教室がゆっくりと、血のような赤に染まりはじめ、ふたりの影が机の上で長く伸びて重なった。


「……じゃあ、行こうか。鏡の間」


 ​透子が首を縦に振る。


 逆光になったその横顔を見た瞬間、ズキリ、と頭の芯が痛んだ。

 デジャヴのような、あるいは警告のような痛み。

 西日のまぶしさか、彼女の不安げな表情のせいか。


 教室のドアを開けると、廊下の空気はひんやりとしていて、ワックスのにおいが鼻をついた。​放課後の校舎から、部活に向かう生徒たちの喧騒が遠ざかっていく。上履きのゴムが擦れる音だけが、やけに大きく響く。

 ​

 非公認の研究会が、非公認の場所に踏み入る。

 背徳感と高揚感が入り混じり、心臓の鼓動が少しだけ高まるのを感じた。


 ​校舎の裏手、鬱蒼とした桜並木を抜けた先に、学院の“もうひとつの顔”があった。​それが“旧館”――今はもう、誰も近づかない禁忌の建物。


 ​燃えるような夕暮れの光のなかで、その建物はまるで時間から切り離された墓標のように沈黙していた。


 新館の磨き抜かれた白い壁とは対照的に、旧館の外壁は長い年月でところどころくすんでいる。壁面の下部には蔦が這い上がり、まるで建物を絞め殺そうとする血管のように脈打っていた。


 ​ひび割れた窓ガラスは、赤黒い空の色と、手入れされずに朽ちた木々の影を歪に映し込んでいる。その暗いガラスの奥から、誰かがじっとこちらをのぞき込んでいる――そんな錯覚すら覚える。


 ​玄関の石造りのアーチは崩れかけ、鉄製の門扉は赤錆に覆われて、半ば開いたまま固着していた。時折吹き抜ける風が、キィ、キィ、と蝶番を揺らし、乾いた悲鳴のような音を立てる。


 湿り気を帯びた土と、木々の濃密なにおい。

 ​周囲の空気が、旧館の周りだけ明らかに異質だった。


 そこだけ季節がひとつ遅れているような、あるいは世界の色が一段階暗いような、そんな肌寒さがまとわりつく。


 ​私は拳を握りしめた。


 チリン、とどこからか、鈴のような音が鼓膜をかすめた気がした。


 けど隣の透子は、怯えるどころか、まるで懐かしい故郷を見るように目を細め、ほほ笑んでいた。


​「ねえ、玲奈。……ここ、前にも来たことある気がする」


 ​私は言葉を返せなかった。


 旧館の二階――蜘蛛の巣が張った割れた窓の向こうで、誰かが白い腕を振っていたような。揺れるカーテンの影がそう見えたのかもしれない。


 ​風が止み、音も消えた。


 夕日が完全に山の端に沈むまでの数秒間、旧館の壁だけが、まるで焼け落ちる前のように赤く彩られていた。


 ​入口の前で、私は冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


​「透子、こわかったら戻っていいよ」


​「やだ。玲奈をひとりにしたら、絶対後悔するもん」


 ​私は強がって笑い、重たい鉄の扉に手をかけた。指先に伝わる鉄の冷たさに身震いしながら、体重をかけて重い扉を引く。

 ズズズ……と重苦しい音と共に、埃とカビの混じった古びた匂いが一気にあふれ出した。


 ​薄暗い廊下の先、夕陽が細い帯になって頼りなく伸びている。


 それはまるで、彼岸への道標のようだった。


 ​透子が小さく喉を鳴らす音が、暗闇に吸い込まれる。


 ​放課後の旧館は、巨大な生き物が口を開けて獲物を待つように、ただ静かに私たちを見下ろしていた。

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