1-3 鏡室

 透子と顔を見合わせる。

 透子の口元が、不安と好奇心の入り混じったようにわずかに震えていた。


「準備はいい……?」


「……うん、開けてみよ」


 扉を押した瞬間、

 内側から冷たい空気がすべり出してきた。


 まるで夜の湖から吹く風みたいに、

 湿り気を含んだ冷たさが肌を撫で、背筋を這い上がってくる。


 懐中電灯の光が入り口を横切った瞬間、

 光の筋が“煙のように”揺れた。

 何もないのに、光だけが折れ曲がっていく。


 部屋に踏み込むと、

 靴底がタイルに触れる軽い音が、やけに大きく響いた。


「……ここ……」


 息が白く見えた気がした。

 ありえない。季節は秋のはずなのに。


 四方の壁。

 窓のない壁面は、天井近くまで鏡張りだった。


 鏡は暗い。

 縁は黒く、錆と埃が付着して、ところどころ曇っている。

 鏡の向こうにひび割れた壁が見える場所もあった。


 蛍光灯は半分以上が壊れていて、

 洗濯もののようにぶら下がってるものもあった。


 光源の位置が変わって見える。

 鏡が、光の進む方向をねじ曲げている。


「……すごい」


 透子が小さく笑う。

 その声だけが、この空間でやけに響いた。


 鏡に映る透子が、

 いくつもいくつも増えて、

 角度の違う笑みを同時に返してくる。


「私たちがいっぱい……変な感じ」


「ほんと。万華鏡みたい」


 最初は、ただおもしろかった。


 透子が手を振ると、

 鏡の中で何本もの腕が、波のように揺れた。


 タイルの床にはうっすらと湿り気があり、

 歩くたびに靴がぺたりと吸いつくような音を立てた。


 笑い声が反響して、

 鏡の向こうからも同じ声が返ってくる。


 なのに――なぜだろう。


 その反響に、私たち以外の何かが笑っている気がした。


「透子、ほら、立ち位置ずらしてみて。映り方が変になるよ」


「こう?」


 二人でふざけながら移動する。


 鏡が返す像が重なりあい、

 見えるはずのない角度から私の顔がのぞいている。


 瞬間、

 私は“背後にいる気配”を感じた。


 でも、振り向くと誰もいない。


 ただ鏡があるだけ。

 でもその鏡の中には“もうひとつの背中”が映っている。


 その違和感が、胸にひっかかった。


「……あれ?」


 懐中電灯を上に向けた。

 光が鏡面に反射し、無数の光の筋となって跳ね返る。


 その反射が、何かおかしい。


 透子がライトを上げた瞬間、

 鏡の中の透子がほんの一拍、遅れた。


「透子、今、ライト上げた?」


「うん。玲奈がしたから」


「……今の……同時じゃなかったような……」


「え?」


 透子がもう一度、手を動かす。


 鏡の中でも動いた。


 でも――今度は鏡の透子が先に動いた。


 透子が動く“前に”。

 鏡の中の透子の瞳がこちらを向いた。


 透子は、気づいていない。


「……ねえ、透子」


「なに?」


「動かないで」


 私の声は震えていた。


 懐中電灯を持つ手を鏡に近づけると、

 鏡の中の透子の目が、

 “ゆっくりと細められた”。


 まるで、笑ったみたいに。


 でもその笑みは透子のものじゃなかった。

 もっと深い。

 凍りついた湖面のような瞳。


「――これ、私たちじゃない」


 その言葉を口にした瞬間。


 背後で“何か”が動いた。


 空気の層が押しつぶされるように膝が折れた。

 振り向くべきだと思ったのに――身体が動かない。


 喉に“何か”が巻きついていた。


 冷たくて、硬くて、

 蛇のように締めつけてくる。


 空気の通り道が塞がれ、声が出ない。


 ​必死に手を伸ばし、喉元の冷たい異物を掴もうとするが、皮膚に深く食い込み、身体の力が抜けていく。


 透子が甲高い悲鳴を上げている。その声も、膜が一枚隔てたように遠く、水底から聞こえるようだ。


「……っ……!」


 声が出ない。

 視界が揺れる。

 鏡の中の透子がこちらを見つめている。

 ほんものの透子は叫んでいる。

 でも鏡の透子だけは――


 静かに、私を見下ろしていた。


 世界が暗くなっていく。

 鏡像の私が、いくつもいくつも死んでいくように沈んでいく。


「……と……こ……たすけ……」


 透子の姿を探す。

 でも、どれがほんものの透子かわからない。

 足元、鏡の中、頭上、横合い――


 あらゆる角度から透子がこちらを見ている。


 最後の瞬間、“鏡の透子”だけが、ゆっくり笑った。


 その笑みだけを残して、

 私の世界は音もなく、闇に沈んだ。

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