第10話
へちゃげた釘の記憶
台所の灯りは、深夜には少し黄みを帯びる。
その柔らかな光の下で、私はひとり、糠床の蓋をそっと開けた。
「……今日も、いるわね」
へちゃげた鉄釘が、糠床の深いところで眠っている。
まるで、長い年月を超えて、私の人生の底に沈む思い出を守っているように。
指先でぬか床をゆっくり混ぜながら、
私はふと、舞台の記憶に触れた。
あなたと初めて共演したあの舞台。
激しい殺陣のシーンで、最後まで耐えていた釘が、
気づけば少し曲がり、かすかに歪んでいた。
大道具スタッフのあなたが、
疲れた私に向かって、
「これ、記念。なんか縁起いいでしょ」
と言って渡してくれたあの瞬間。
あなたはただの気まぐれだったのかもしれない。
だけど私は、あのへちゃげた釘を、
どうしても捨てる気になれなかった。
年月が流れて、
あなたは舞台に立つ人になり、
私は言葉を紡ぐ人になり、
それでもあのときの釘だけは、
どこにも行かず、ずっと手元にあった。
ぬか床をつくった日の夜、
私は迷わずその釘をそっと沈めた。
「発酵の神様に守ってもらいなさい」
そんな気持ちで。
もしあなたが知ったら、
どう思うだろう。
舞台裏で、汗をぬぐいながら何気なく渡した鉄釘が、
この歳になった私の糠床の中で、
今も毎日、発酵の渦に巻かれているなんて。
きっとあなたは、
あの頃と同じように目をくしゃっとして笑い、
「え、まだ持ってたの?変な人だなぁ」
と、悪気のない声で言うのだろう。
その無邪気さが、
また私の胸のどこかをやさしく刺す。
「……笑い話にしてくれるかしら」
糠床を混ぜる手を止めて、
私は小さくつぶやいた。
これは恋ではない。
でも恋の隣に置いてもいいような、
長い長い時間をかけて熟成した気持ち。
へちゃげた釘は、
あなたとの出会いも、言葉の始まりも、
そして私の人生の“旨み”の部分も、
静かに抱えこんでくれている。
私は蓋を閉じる。
壺に手を置くと、そのひんやりとした感触が
まるで「大丈夫」と言ってくれるようだった。
発酵は止まらない。
表に見えなくても、
中でゆっくりと変わり続けていく。
あなたへの気持ちも、
もう恋とか憧れではなく、
もっと静かで深い“熟れたもの”になっていた。
私はひとりきりの台所で微笑む。
――このへちゃげた釘を沈めた日から、
私の人生は静かに、美味しくなっていったのだ。
そして今日でひと区切り。
物語は終わるけれど、
発酵は続く。
私の人生も、彼の人生も、
この壺の中の鉄釘も、
それぞれの時間のなかで、
ゆっくり、じんわり、熟していく。
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