第9話
ぬか床と鉄釘と壺のささやき
朝の光が台所を淡く照らす。
琺瑯の壺の中で、糠床が静かに息をしていた。
その中には、ひとつだけ、へちゃげた鉄釘が混ざっている。
「おはよう、今日も元気そうだね」
壺が声を出すわけではないのに、私はそう囁きかける。
糠床の表面がぷくっと動き、微かに泡を立てた。
「おはようございます」
糠床は、まるで照れた乙女のように応えた。
混ざりあった鉄釘も、少しだけ光を反射している。
――本当に中身は、可愛い恋する乙女のままだよね。
「僕は、今日も少し酸っぱくなるかもしれないけれど……」
鉄釘が心の声を漏らす。
ぬか床に埋もれたままでも、自分の存在を誇らしく思っているようだ。
私は、スプーンで糠を混ぜながら微笑む。
「大丈夫、あなたも私も、そしてこの壺も、ちゃんと一緒に発酵してるから」
壺の壁に触れると、わずかにひんやりとした感触が手に伝わる。
その冷たさが、妙に安心させる。
「ねえ、あなたたち」
糠床に向かって囁く。
「私も……恋する乙女の気持ちでいられるのかな」
糠床がぷくっと跳ねる。
鉄釘も、わずかに輝く。
壺の琺瑯が朝の光を受けて、くすっと光った。
そう、私の心は変わらない。
歳を重ねても、恋する乙女のようなときめきは、
推しを思う胸の奥に、ちゃんと残っている。
「今日も、あなたたちと一緒に過ごせる」
私は小さな声でつぶやく。
糠床と鉄釘と壺が、それぞれに私の言葉を受け止め、
静かに、でも確かに、私の幸せを応援してくれている気がした。
今日も発酵は続く。
恋も、ぬか床も、私の人生も。
三者の会話は、沈黙の中で、じんわり温かく膨らんでいく。
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