第6話
無邪気の刃と、姉世代の沈黙
「そんなにキラキラした顔をしないでよ」
彼の笑顔を見た瞬間、心のどこかがふっと崩れ落ちるような気がした。
舞台の上で見せる表情とは違う。
照明ではなく、素の光で輝く目。
あれはずるい。
あれは反則だ。
押しきられる、と思った。
ただの推し活のはずなのに、
こちらの心の襟元を、無邪気に指でつまんでくる。
少しひっぱられるだけで、落ちてしまいそうだ。
「結婚式のスピーチも紹介文も書いてくださいよ〜」
と軽く笑う彼に、私は負けた。
「はいはい、書くわよ。
あなたの人生の晴れ舞台くらい、いくらでも書くわよ」
そう返した声が、ほんの少し震えていたのを自分だけが知っている。
若くて無防備で、疑うことを知らない男というのは、
時としてもっとも残酷だ。
こちらが恋愛感情に近い温度を持つなど、
微塵も想像していない顔で笑う。
その無邪気さが、かえって心に刺さる。
私はもう、お姉さんどころか、
はっきり「おばさんの世代」と言っていい歳だ。
人生の半分以上を独りで歩き、
恋だの愛だのは、遠く美しい物語のように扱ってきた。
なのに、この若い男は、
「あなたはあり得ない」と無意識に信じ切っていて、
だからこそ、まっすぐに甘えてくる。
――そんなふうに近づかれたら、
どうしたって、好きになってしまうでしょう。
彼の無邪気さは刃物だった。
こちらの防御を軽々とすり抜け、
心の柔らかいところまで届いてしまう。
でも、傷つけられているわけではない。
むしろ、あたたかい。
やわらかい。
発酵した甘やかさが胸に広がる。
私はぬか床を混ぜながら思う。
若い彼の無邪気は、
私の静かな人生に小さな気泡をつくる。
じわりと浮かぶ、予期せぬときめき。
それを否定しない程度の大人には、もうなってしまった。
だから私は今日も、
彼の晴れの日を祝うスピーチの草稿を
硝子ペンで静かに書きはじめる。
恋ではない。
でも恋の隣にあるもの。
それくらいの温度で、彼を想う。
机の上の硝子ペンが、
少しだけ光った。
まるで私の胸の奥で、
またひとつ気泡が膨らんだのを知っているみたいに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます