第4話
インクの底で発酵するもの
硝子ペンを初めて手にした日のことを、私はたぶん老境になっても覚えている。
恐ろしいほど美しく、そして少し残酷なほど繊細だった。
光を撫でるたび、ガラスの軸が青く溶け、
まるで推しが舞台の上で見せた一瞬の“本気”のように、
世界のどこかだけが異様なほど澄んでしまう。
瓶を開けると、特別に調合されたインクから
鉄と果実のような匂いがたちのぼる。
若い頃には気づかなかった香りだ。
成熟というのは、香りの層が増えることなのかもしれない。
硝子ペンの先をインクに浸すと、
とろり、と濃度が絡みつく。
推しの声を思い出す。
あの深さ——以前はなかった。
20代の少年の声ではなく、
30代に差しかかる男の胸奥から響く声。
思えば、私は油断していた。
年下はいつまでも年下だと思っていた。
彼らがある日、静かに発酵してしまうことを考えもしなかった。
舞台のある場面で彼がふと見せた“間”。
そのわずかな沈黙が、私の人生のどこかを撫でていく。
仕草の端に、成熟した男の色気が滲んでいた。
あれはもう、年下の子どもの輝きではない。
私より若いのに、私より深い影を持っていた。
――あぁ、これは危ない、と私は直感した。
硝子ペンを紙に置く。
インクが一文字を描くたびに、
彼の息づかいのような音がした。
推しの脚本を書くという役得。
なんと贅沢で、なんと静かな狂気だろう。
私は言葉を選びながら、
彼の“変化”を、紙の上にそっと置いていく。
「若い男が発酵していくというのは、
まるで時間そのものが熟成されるようなものだ」
そんな行を書きながら、
私はふと、ぬか床を混ぜたときの感触を思い出す。
毎日少しずつ変化して、
昨日の姿はもう今日のものではない。
推しもそうなのだ。
彼の30代の呼吸は、
私の知らない色気をゆっくり育てていた。
無自覚で、残酷なほど自然に。
硝子ペンを止めると、
インクの香りがふっと鼻先をかすめた。
その瞬間、胸の奥にほのかな熱が広がった。
ぬか床を混ぜる指先の温度と、
彼が舞台で見せた成熟の気配が、
同じ場所でそっと重なっていく。
人生は発酵する。
推しもまた発酵する。
そして私の感情もまた、
知らぬ間に静かに熟れていく。
硝子ペンを置いた机の上に、
光が一筋落ちていた。
まるで、今日の私は昨日より少しだけ旨みが増えたと、
誰かに告げられたようだった。
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