第3話

静かな手のひらの温度


朝いちばん、台所の空気にはまだ夜の名残があった。

薄暗い窓辺からこぼれる光は、ぬか床の白い琺瑯にだけ、そっと触れていく。


私はその前に立ち、少しだけ深く息を吸った。

冷えた空気と、底に沈んだ酸味の香りが、胸の奥へゆっくり落ちていく。


蓋を開けると、寝返りを打ったように、

ぬか床の表面が、やわらかく、わずかに弧を描いていた。


「おはよう」


声はかすかにしか出ていないのに、

まるで分厚い静寂のパレットに、ひと筆だけ色を足したような感触があった。

言葉がしみ込む、というのはこういうことだろうか。


私は指先を差し入れ、底へゆっくりと混ぜていく。

ひんやりとしたぬかは、まるで記憶のようだ。

忘れかけた感情をひとつひとつ拾い上げて、また沈める。


昨日見た推しの横顔が、ふっと浮かんだ。

舞台の照明のなかで切り取られた一瞬の表情。

それが、なぜか今日のぬか床の温度と同じように思えた。


推しの演技は、私の人生に派手な光を落とすわけではない。

でも、確かに、私の内部でゆっくりと発酵していく。

誰に言うでもないけれど、私の中では静かな革命に近い。


指先を動かし続けると、

ぬか床の奥からかすかな温もりが返ってきた。

ほんのわずかな、命のやりとり。

人ではないのに、どこか対話めいていて、

私はいつもこの瞬間、言葉を失う。


混ぜ終わり、手を抜くと、ぬか床の表面を軽く撫でた。

自分でも驚くほど、自然な仕草だった。


年齢を重ねると、

誰かに触れられることよりも、

誰かに触れることのほうが、ひどく遠くなる。


だから私は、ぬか床のわずかな温度に、

少しだけ胸がほどけるのを感じるのだ。


手を洗い終える頃には、

窓からの光が台所の色を変えはじめていた。


きゅうりを一本、布巾で拭きながら、

私はひそやかに思う。


――あぁ、私の人生も、こんなふうにゆっくりでいい。

  急がなくていい。

  発酵は焦らない。


きゅうりをそっと埋めたとき、

ぬか床が小さく息をしたように見えた。


今日も、静かにおいしくなっていく。

私もまた、どこかで少しずつ。

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