第2話
推しとぬか床がやってきた日
三月の風は、まだ少しだけ冷たい。
その日、私は舞台帰りの電車で、胸の奥がふわふわしていた。
推しの表情の細やかさに、心が酔っていたのだ。
あの指先の震え。あの台詞まわし。
帰り道の私の心は、すっかり“発酵”してしまっていて、
まるで誰かがそっと温めてくれているみたいだった。
――この気持ち、どこに置いていけばいいのか。
家に着いてカバンを降ろした瞬間、
ふとネット通販で見かけていた「ぬか床スターターセット」が思い浮かんだ。
発酵と推し。
まったく関係ないようで、どこか似ている。
しずかに、じんわり、時間をかけて私を変える。
気づけば私は、ぽちっと購入ボタンを押していた。
---
二日後。
台所に届いた白い琺瑯容器を前に、私は妙に緊張していた。
「……よろしくお願いします」
誰にともなく言った瞬間、なんだか自然と笑ってしまった。
推しに話しかけるときと同じ、少し照れくさくて、でも温かい気持ち。
米ぬかをさくさく混ぜる指先が、なんだか舞台の余韻を思い出す。
推しの姿が、私の奥のほうで、またゆっくり発酵していく。
一通り混ぜて蓋をしめると、
台所にわずかな酸味の匂いが広がった。
……いい香り。
ちょっとときめく。
推しの余韻みたいに。
その夜、私は寝る前にぬか床をちらりと覗いた。
まだ何も漬けていないのに、その小さな塊が妙に頼もしく見えた。
「あなたと一緒なら、私の人生も、もっとおいしくなるかもね」
そう言って照明を消した。
ぬか床も推しも、私を育ててくれる。
刺激じゃなくて、じんわり効いてくる幸せ。
50代の独身暮らしの中に、静かに灯った新しい相棒。
ここから始まる。
推しと発酵する生活。
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