第3章:その「優秀」は、論理的ではない
「ポンコツ・アライアンス」――氷川 律香(ひかわ りっか)が一方的に命名したあの秘密協定が結ばれてから、数日が経過した。 律香の日常は、表向きは何も変わらない。 銀縁メガネの奥の瞳は変わらず冷徹にコードを追い、一筋の後れ毛も許さないシニヨンは完璧な形を保っている。彼女の論理的な叱責は、今もなお第3開発部フロアの規律そのものだった。 だが、ただ一つ。彼女の視界の中で、天野 光輝(あまの こうき)という存在のノイズレベルが、無視できないほどに増大していた。
(……また、やっている)
律香は、ディスプレイから一瞬だけ視線を外し、フロアの隅にある給湯スペースにいる光輝の背中を睨んだ。 彼は、先日律香に厳しく叱責された高橋(入社三年目)に、自販機で買ってきたらしい缶のコーンスープを差し出している。 「高橋さん、顔色悪いですよ。これ、飲んでください。糖分、大事です!」 「あ……天野くん、ありがとう。悪いね」 「いえいえ! 俺、氷川さんに昨日レビューしてもらって、やっとここのロジック理解できたんです! 高橋さんも頑張ってください!」
律香は、無表情のまま内心で舌打ちをした。 (非効率だ) 高橋のタスク遅延は、彼自身のスキル不足が原因だ。コーンスープで解決する問題(イシュー)ではない。そもそも、光輝自身、まだ半人前のOJT対象者。他人の心配をしている工数(時間)があるなら、自分の課題レビューを一行でも進めるべきだ。 以前の彼女なら、即座に二人を呼びつけ、「馴れ合いはノイズです」と一喝していただろう。
だが、今の律香の脳裏には、午前二時のオフィスで差し出された、あの「炭のおにぎり」がフラッシュバックする。 (……あの男は、根っからこうなのだ) あの「炭」も、徹夜明けの自分に向けられた、彼なりの100%の「善意」だった。 それを知ってしまった手前、そして何より、「家事壊滅」という最大の弱点を共有してしまった手前、どうにも強く出にくい。 完璧主義者である律香にとって、そのジレンマは、システムのエラーログが解消されないまま放置されているような、強烈な不快感を伴うものだった。
不快感の種は、それだけではなかった。 「はい、ネクサス・ソリューションズ、天野が承ります。……あ、A社の山田様! いつも大変お世話になっております!」 クライアントからの入電に、光輝がマニュアル通り、しかしやけに嬉しそうな声で応答している。 A社は、先日の大規模障害で最も被害を受けた、最重要クライアントだ。 律香は、自分の業務の手を止めることなく、耳だけを光輝の会話に向けていた。
「はい……はい。機能の件、承知いたしました。……え? ああ、いえ、そんな! お疲れですか? ……そうですよね、月末処理、大変ですよね。わかります! 俺も、この間、データを……」 (……始まった) 律香は、こめかみを押さえた。 機能に関する要件確認は、最初の三十秒で終わっている。そこから先、五分以上、光輝はクライアントの「愚痴」――機能とは一切関係のない、A社の社内事情や、担当者・山田のぼやき――に、延々と相槌を打っているのだ。 「へえ! 山田さん、猫飼ってらっしゃるんですか! いいなあ!」
(工数の無駄だ) 雑談は、一円の利益も生まない。クライアントの機嫌を取るのが仕事ではない。即刻切り上げさせ、本題の仕様確認に戻さなければ。 律香が席を立とうとした、その時。 「……はい! ありがとうございます! 山田さんも、お風邪など召されませんように。失礼いたします!」 光輝が、やけに晴れやかな顔で電話を切った。 「天野さん」 「は、はいっ!」 「今の電話、本題以外の会話が五分四十五秒。非効率です。クライアントの貴重な時間を奪うべきではありません」 「あ、すみません! でも、山田さん、すごく疲れてるみたいで……。なんか、俺と話して、少し元気出たって言ってくれました!」 「それがあなたの『感想』ですよね。私たちが提供すべきは『元気』ではなく『完璧なシステム』です。次はありません」 「う……承知しました……」
しょんぼりと肩を落とす光輝を見て、律香はわずかな罪悪感――いや、論理の揺らぎを感じた。 (なぜだ。私は正しいことを言っている。なのに、なぜ……まるで私が「悪者」になったような、この非効率な感覚は) 「鉄の処女」の心が、理解不能なノイズによって、確実に軋(きし)み始めていた。
*
その「軋み」が、決定的な「亀裂」に変わったのは、翌週の火曜日。 A社との、障害恒久対応に関する最終調整会議でのことだった。
重苦しい空気が、会議室に満ちている。 A社の担当者である山田は、目の下に濃い隈(くま)を作り、腕を組んで律香たちを睨みつけていた。 「……で、氷川さん。提示されたこの改修スケジュールだがね。本当に、これ以上、縮まらないのかね?」 律香は、完璧に準備された資料に基づき、冷静に応答した。 「はい。山田様。先日の障害原因は特定済みであり、ご提示したこのスケジュール(二週間の改修・テスト期間)が、論理的に最短かつ最善の工程(ロードマップ)です」 「最短? 最善?」 山田の声のトーンが、一段階低くなる。 「あの障害のせいで、こっちがどれだけ迷惑してると思ってるんだ。うちの顧客に頭を下げて回って、こっちが寝る時間も惜しんで対応してるんだぞ」 「それは重々承知しております。ですが、これ以上のスケジュールの短縮は、テスト工数の削減を意味します。それは、さらなる品質(クオリティ)の低下を招く可能性があり、非合理的です。弊社としては、そのリスクは許容できません」
律香の返答は、百点満点だった。 論理的であり、クライアントのリスクを回避し、自社の品質を守る、完璧な「正論」。 だが、その「正論」は、最悪のタイミングで、最悪の火種に引火した。
「――っ、ふざけるな!」 バン! と山田がテーブルを叩く音が、会議室に響き渡った。 「リスク? 品質? こっちはもう、おたくの『完璧なシステム』とやらで、煮え湯を飲まされてるんだ! 氷川さん、あんたの言ってることは、全部正しいんだろうさ! だがな、その『正しさ』が、こっちの苦労も、心情も、何一つわかってないって言ってるんだ!」 「や、山田様、お言葉ですが、私は感情論ではなく、事実(ファクト)に……」 「まだ言うか! もういい、わかった! おたくらとはもう話にならん! 担当を変えろ! いや、コンペだ! 他社に切り替える!」
激怒した山田が、椅子を蹴立てて立ち上がる。 「あ、課長……」 「山田様、お待ちください!」 五十嵐課長が青ざめて取りすがろうとするが、山田の怒りは収まらない。 律香は、その場で凍り付いていた。 (なぜ? どうして? 私の論理は完璧だ。彼の要求は非論理的だ。私が、間違っている……?) 「鉄の処女」の頭脳が、初めて「理解不能」なエラーでフリーズした。
その時だった。 「あ、あのっ!」 会議室の末席で、議事録係として縮こまっていた光輝が、甲高い声を上げた。 全員の視線が、彼に集まる。 「……山田さん。本当に、本当に、申し訳ありませんでした!」 光輝は、席を立つと、山田の前に走り寄り、九十度の角度で深々と頭を下げた。
(……無意味だ) 律香は冷めた思考でそれを見ていた。謝罪は、すでに課長が何度もしている。 「……なんだ、電話の天野くんか」 山田が、苛立たしげに吐き捨てる。 「悪いが、今は君と雑談している暇はない。新人は黙っていろ」 「はい、ただの新人です! ……でも、俺、先週、山田さんとお電話で……」 光輝は、山田の言葉を遮るように、必死に続けた。 「……猫ちゃんのお話、すごく楽しそうで……」 「……猫?」 「はい! だから、山田さんの会社のWebサイト、拝見したんです。そしたら、『お客様の声』のページが、すごく……すごく丁寧に作ってあって。写真もたくさんあって。山田さん、本当に、お客さんのこと大好きなんだなって……勝手に、思ってました」 山田の眉が、ピクリと動いた。 「……それが、どうした」
「だから……っ、今回の障害で、山田さんが一番、その大好きなお客さんたちに、申し訳ないって……辛い思いしてるんだなって……!」 それは、工数にも、仕様書にも、どこにも書かれていない、光輝の「感想」だった。 「俺、氷川さんが、昨日、ほとんど寝ないで山田さんのための恒久対応の資料、作ってるの、見てました!」 「え……」 律香の肩が、わずかに震える。 「氷川さん、口はすごくキツいし、いつもロジック、ロジックって、俺、怒られてばっかりなんですけど……でも、絶対に、手を抜かない人なんです! 山田さんのシステムを、完璧なものに戻したいって、誰よりも思ってるんです!」
光輝は、もう一度、深く、深く頭を下げた。 「俺たちも、山田さんと同じ気持ちで、一秒でも早く、もっと良いものにしてお返ししたいって、本気で思ってます! だから……どうか、もう一度、俺たちに……氷川さんに、チャンスをください!」
それは、論理(ロジック)ゼロの、ただの「感情論」だった。 何の解決策も、新しいスケジュールも提示していない、非効率な「思い」の羅列。 だが。
「…………ふん」 激怒していた山田が、組んでいた腕を解き、ふっと息を吐いた。 「……徹夜、ねえ。あの『鉄の処女』が、そんな泥臭いことするのかね」 彼は、光輝の肩越しに、凍り付いている律香を一瞥した。 「……わかったよ。課長さん。スケジュールは、それでいい。その代わり、この新人くんの顔に免じて、もう二度とトラブるなよ。いいね?」 「は……はい! ありがとうございます!」 課長が、信じられないという顔で頭を下げる。
窮地は、救われた。 嵐のように山田が去っていった会議室で、律香だけが、立ち尽くしていた。 自分の「完璧な論理(正論)」が、クライアントを激怒させた。 自分が「非効率なノイズ」として切り捨てていた、光輝の「感情論(思いやり)」が、そのすべてを覆した。
(なぜだ) (彼の行動は、非論理的だ。何一つ、事態を解決していない) (なのに、なぜ、クライアントは……納得したんだ?)
氷川 律香、二十八歳。 彼女が人生をかけて築き上げてきた「論理」と「完璧主義」の鉄の城が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた、瞬間だった。
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