第2章:ポンコツ・アライアンス(秘密協定)
天野 光輝(あまの こうき)が配属されてから、一週間が過ぎた。 彼は律香(りっか)の論理的な叱責を、なぜか「的確なアドバイス」としてスポンジのように吸収し、毎日「勉強になります!」と目を輝かせている。
そのポジティブさは理解し難かったが、少なくとも、感情的な提案でプロジェクトを妨害することはなくなった。 そう思っていた、金曜日の午後。 「あ、あの、氷川さん……」 律香が集中してコードレビューを行っていると、光輝がおずおずと声をかけてきた。 「何ですか。今は忙しいのですが」 「すみません! でも、なんだか……サーバ監視ログの、タイムスタンプが、気持ち悪いです」 「……は?」 律香は、思わず手を止めた。 「『気持ち悪い』? それは、あなたの『感想』ですよね。私が、非論理的な報告は不要だ、と何度言えば理解しますか」 「あ、いえ! 感想というか……ほら、ここです」 光輝が指差したモニタには、膨大なログが流れている。 「0.5秒間隔のはずなんですけど、たまに、0.7秒とか、1秒近く飛んでるように見えて……」 「……。誤差の範囲です。ネットワーク遅延か、監視ツールの仕様でしょう。具体的なエラーコードが出ていない以上、それはノイズです。あなたのタスクに戻りなさい」 「で、でも……」 「ノイズを『予兆』だと騒ぎ立てるのは、最も非効率です。下がってください」 「……はい。承知しました」 光輝は、まだ何か言いたげにしながらも、しょんぼりと自分の席に戻っていった。
律香は、完璧な「鉄の処女」として、彼を「論理的に指導可能な、非効率な後輩」として扱い、日々の業務を完璧に遂行していた。 㠀その完璧な日常が、音を立てて崩れたのは、その数時間後、金曜日の夜のことだった。
「課長! メインサーバのDB接続がロスト! クライアントの基幹システムが全面停止しました!」 定時を三時間も過ぎた、午後九時。フロアに響き渡った悲鳴のような報告が、大規模障害の幕開けだった。 「原因はなんだ!」 「不明です! 昨夜のバッチ処理が異常終了している影響かもしれませんが……!」 フロア全体が、一瞬にして戦場と化した。怒号と、悲鳴に近いキーボードの打鍵音が鳴り響く。 「全員、緊急対応! 復旧を最優先!」
その混乱の渦中にあっても、氷川 律香だけは冷静だった。 「五十嵐課長、慌てないでください。感情論はノイズです」 銀縁メガネの奥の瞳を冷ややかに光らせ、彼女は即座に指示を飛ばす。 「インフラチームはサーバのログを、DBチームはトランザクションログを、それぞれ直近一時間分、時系列で洗い出してください。高橋さん、クライアントへの一次報告。障害内容と、現在調査中であることだけを簡潔に伝えて。……天野さん」 「は、はいっ!」 オロオロと立ち尽くしていた光輝が、緊張した声で応じる。 「あなたは私の隣で、各チームからの報告をすべて時系列で議事録にまとめてください。余計なことはしなくていい。事実(ファクト)だけを記録すること」 「りょ、了解です!」 律香は、眉ひとつ動かさず、キーボードを操作しながら続けた。 「天野さん」 「は、はいっ! なんでしょう!」 「上司、取引先、顧客など、目上の人に対して『了解』は不適切です。こういう時こそ『承知しました』と答えなさい。修正してください」 「え……あ、は、はい! しょ、承知しました!」
律香の論理的かつ的確な切り分けにより、混乱していた現場は即座に統制を取り戻す。 原因の特定、暫定対応、恒久対応の策定――。 「鉄の処女」は、その名の通り、一切の感情を排し、障害という名の敵を冷徹に処理していった。
*
すべての処理が完了し、システムが正常に稼働し始めたことを確認したのは、午前一時半を過ぎた頃だった。 「……ふう。氷川さん、今回も助かったよ。君がいなかったら、どうなっていたことか」 疲労困憊の五十嵐課長が、ぐったりとした様子で礼を言う。 「(……いや。あの時のログの『揺らぎ』。あれが予兆だったというのか?)」 律香の脳裏に、光輝の非論理的な報告が一瞬だけよぎったが、彼女はすぐにそのノイズを振り払った。 「論理的な手順を踏んだだけです。それより、恒久対応のスケジュールを早急にクライアントと調整してください」 「ああ、わかってるよ……。さて、もう終電もない。みんな、今夜はタクシーで帰ってくれ。経費で落ちるから」
課長のその一言で、張り詰めていたフロアの空気が一気に緩む。 疲れ切った同僚たちが、ゾンビのように一人、また一人とオフィスから消えていく。 律香も帰り支度を始めたが、タクシーを待つ気力さえ湧かないほどの疲労を感じていた。 (少しだけ、休もう) アドレナリンが切れ、急速に疲労と……そして、強烈な「空腹」が襲ってきた。
午前二時。 広大なフロアに残っているのは、律香と、そしてなぜかまだ帰らずに議事録を清書している光輝の二人だけになっていた。 深海のような静寂が、再びオフィスを支配する。 (……昼食は、栄養ゼリーだけ。さすがに、限界だ) 完璧主義者の律香も、生理的欲求には抗えない。 周囲に誰もいないこと(正確には、光輝はいるが、彼は視界に入っていなかった)を確認し、彼女はそっとデスクの引き出しに手を伸ばした。
完璧な「鉄の処女」としての威厳。それが、今、崩れようとしている。 (仕方ない。緊急事態だ) 誰にともなく言い訳をしながら、彼女が取り出したのは、昼食と同じ、ブロックタイプの栄養調整食品だった。 せめてもの抵抗として、人目につかないようデスクの下で銀紙をそっと剥がそうとした、その時。
「あ、あの……氷川さん」 不意に、背後から声がした。 びくり、と律香の肩が、彼女の人生で最も激しく跳ね上がった。 慌てて栄養調整食品を握りしめ、完璧な表情(ポーカーフェイス)を取り繕って振り返る。 「……何ですか、天野さん。まだ帰っていなかったんですか」 「議事録、まとめ終わりました! ……あの、それより、氷川さんも夕飯まだですよね?」
光輝は、なぜか少し申し訳なさそうな顔で、自分のデスクバッグをごそごそと漁っている。 「僕も、まだで……。さっき、コンビニ行こうかと思ったんですけど、閉まっちゃってて」 「……それが、何か?」 律香の警戒心が、最大レベルに引き上げられる。 (まさか、この男、私の夕食がこれだと気づいた……?)
「あ、いえ! あの、もしよかったら、なんですけど……」 そう言って、光輝がカバンから取り出したのは、黒い物体だった。 いや、正確には、ラップに包まれた、おにぎり……だったもの、だ。
「……?」 律香は、思わず銀縁メガネの奥の目を細めた。 それは、どう見ても「おにぎり」ではなかった。表面は黒く焦げつき、まるで炭の塊だ。ところどころ、ラップを突き破って、白米だったらしいものが無残な姿を晒している。 「すみません、今朝、頑張って握ってきたんですけど……なんか、炊飯器のスイッチ、入れ間違えたみたいで。カッチカチで」 光輝はそう言って、はにかむように笑った。 「でも、こっちは、たぶん食べられます!」 彼が次に取り出したのは、タッパーに入った、卵焼き……だったもの、だ。 黄色いスクランブルエッグに、なぜか緑色の物体(おそらくネギ)が化石のように突き刺さっている。
律香の思考が、完全に停止した。 目の前にあるのは、昼食を抜いた完璧主義者の上司と、その上司に「炭の塊」と「謎の物体X」を善意で差し出そうとしている、家事能力皆無の後輩。 その瞬間、光輝の視線が、律香の手元に釘付けになった。 彼女が、驚きのあまり握りしめていた――ブロックタイプの栄養調整食品に。
「あ……」 「…………」
午前二時の、静まり返ったオフィス。 二人の視線が、交錯する。 一方は、深夜残業の非常食として「炭のおにぎり」を持ち歩く男。 一方は、同じ状況で「ブロックタイプの栄養調整食品」をかじろうとしていた女。
互いの、職場では決して見せることのない「ポンコツな私生活」が、同時に白日の下に晒された瞬間だった。
「……氷川、さん。もしかして、夕飯、それ……」 「…………っ!」
律香の顔から、急速に血の気が引いた。 「鉄の処女」の仮面が、音を立てて砕け散る。 見られた。この私(完璧な氷川 律香)の、最大の弱点(家事壊滅)を。この、非論理的な後輩に!
「あ、いや、あの、その……! 俺と同じ……いや、俺より全然、合理的(ごうりてき)で、すごいです!」 光輝が、なぜか慌ててフォローにならないフォローを入れる。 だが、その「同じ」という言葉が、律香のプライドを決定的に傷つけた。 (この男と、私が、同じ……?)
律香は、猛烈な速度で思考を回転させた。 この失態を、どうリカバリーするか。 この事実が職場で露見すれば、「鉄の処女」としての威厳は失墜する。「あの上司、家事もできないらしいよ」と嘲笑われる。それだけは、絶対に許容できない。
律香は、すぅ、と息を吸った。 そして、握りしめていた栄養調整食品を(もう隠す意味はなかった)ゆっくりとデスクに置き、銀縁メガネの位置を直した。 「天野さん」 「は、はいっ!」 彼女の声は、障害対応時と同じ、氷のような冷静さを取り戻していた。 「あなたは今、極めて重大な機密事項を目撃しました」 「え……き、機密事項?」 「そう。私の『食生活』という、高度なセキュリティで守られたプライベート情報です」 「は、はあ……」
律香は、完璧な姿勢で光輝に向き直る。その瞳は、もはや「鉄の処女」のそれだった。 「同様に、私もあなたの『壊滅的な調理能力』を目撃しました」 「か、壊滅的……」 光輝が、炭のおにぎりを握りしめたまま、ショックを受けた顔をする。 「これは、いわば『相互確証破壊』です。どちらか一方がこの情報を漏洩させれば、もう一方も社会的ダメージを受ける。非論理的だと思いませんか」 「は、はい……?」
(もう、これしかない) 律香は、最終的な決断を下した。 「よって、OJT指導担当として、あなたに業務命令を伝達します」 「ぎょ、業務命令?」 「今夜、我々が互いに目撃した『私生活のポンコツぶり』に関する一切の情報を、職場において、あるいは第三者に対して、絶対に口外しないこと。……いわば、秘密保持契約(NDA)です」
「ポンコツ・アライアンス」――のちにそう呼ばれることになる、奇妙な協定が結ばれた瞬間だった。
律香の必死の(しかし、あくまで冷静沈着を装った)提案に、光輝は一瞬きょとんとした。 だが、やがて、その場の緊迫感にそぐわない、ふにゃりとした笑顔を浮かべた。 「……はい! 了解しました! 秘密、守ります!」 律香は、こめかみをピクピクと引きつらせた。 「……天野さん」 「は、はいっ!」 「先ほども、言いましたよね」 「ああっ! すみません! しょ、承知しました! 秘密、絶対に守ります!」 光輝はそう言って、なぜかとても嬉しそうに、右手を差し出してきた。 「俺、氷川さんも『仲間』だってわかって、なんか、すげえ嬉しいです!」 「……握手は不要です。あと、『仲間』でもありません」
律香は、差し出された手を冷たくあしらい、背を向けた。 だが、銀縁メガネに隠された彼女の耳が、羞恥と安堵で真っ赤に染まっていたことを、暗いオフィスの中で知る者はいなかった。
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