第4章:家事レベル0からのプロポーズ
A社の山田が嵐のように去っていった会議室は、まるで台風一過のような奇妙な静けさに包まれていた。 「……助かったぁ……」 五十嵐課長が、その場にへたり込む。 「しかし、驚いたな、天野くん! まさか、あの山田さんを丸め込むとは!」 「えへへ……すみません、俺、出しゃばって……」 課長に頭を撫でられ、光輝(こうき)は照れくさそうに頭を掻いている。
その光景を、氷川 律香(ひかわ りっか)は、会議室の隅で立ち尽くしたまま、焦点の合わない瞳で見つめていた。 (……わからない) 彼女の完璧な論理(ロジック)は、今、完全に機能を停止している。 (私の「正しさ」は、破綻した) (彼の「非論理」が、事態を収拾した) (なぜ? どうして? 私が間違っていたというのか?)
カラカラに乾いた喉から、かろうじて声を絞り出す。 「……天野さん」 「は、はいっ!」 律香の凍りついた声に、光輝はびくりと体を震わせた。 「あなたは……なぜ、あんなことを言ったんですか」 「え……あ、あの……それは……」 「あなたの行動は、何の解決策も提示していない、ただの『感情論』です。クライアントの時間を無駄にし、会議を混乱させただけだ。本来なら、厳重注意(ペナルティ)の対象です」 それは、もはや叱責ではなく、答えのわからない問いをぶつける、迷子のような響きをしていた。
「……でも」と、光輝は律香の冷たい視線をまっすぐに見返した。 「俺……氷川さんが、正しいこと言ってるのに、山田さんに怒鳴られてるの、悔しかったんです」 「……なに?」 「氷川さん、あの障害のあと、ずっと恒久対応の資料、作り直してましたよね。俺の書いた議事録じゃ全然足りなくて、自分でサーバログまで全部見直して……」 それは、律香が誰にも見せていない、完璧な資料の裏にある泥臭い作業だった。 「山田さんは『鉄の処女』とか言ってましたけど……俺は、氷川さんが、誰よりもこの仕事に本気だって知ってるから」 「…………」 「だから……山田さんに、氷川さんの『ロジック』の裏にある『本気』を、知ってほしかった……だけです」
ロジック。本気。 律香は、自分が切り捨ててきた「感情」というノイズが、自分の「論理」を支える土台そのものであったことを、この二十歳の青年に、今、教えられた。 「鉄の処女」の仮面が、音もなく砕け散った。 彼女は、銀縁メガネの奥の瞳を、驚きに見開いたまま、返す言葉を何も見つけられなかった。
*
その日の夜。 律香は、珍しく業務を早く切り上げ、人気のない給湯スペースでぼんやりと立ち尽くしていた。 (私は、ずっと間違っていた) 論理(ロジック)は完璧だと思っていた。だが、そのロジックを扱う「人間」の心が、見えていなかった。 山田さんの焦燥も、苦労も、そして……光輝の、あの「タイムスタンプの揺らぎ」に気づいた「直感」も。
あの障害の予兆。 光輝の「気持ち悪い」という非論理的な報告を、自分は「ノイズだ」と一蹴した。 もし、あの時、彼の「感情」に耳を傾けていれば、あの大規模障害は、防げたのではないか? ぞわり、と背筋が凍るような感覚。 自分の完璧主義(ロジック)が、会社を最大の危機に晒(さら)していた。 そして、その危機を救ったのは、自分が「優秀ではない」と断じた、光輝の「非論理(おもいやり)」だった。
「……氷川さん?」 背後からの声に、律香の肩が小さく揺れた。 光輝が、不思議そうな顔で立っている。 「どうしたんですか? お腹でも痛いんですか?」 「……天野さん」 律香は、ゆっくりと彼に向き直った。 「私は、あなたに謝らなければなりません」 「えっ!?」 「あの障害対応の時……あなたは、予兆に気づいていた。それを、私は『非論理的だ』と切り捨てた。……私の、判断ミスです」
「鉄の処女」が、初めて他人(ひと)に頭を下げた。 光輝は、予想外の出来事に、慌ててぶんぶんと両手を振った。 「や、やめてください! そんな! 俺こそ、うまく説明できなくて……!」 「いいえ」 律香は、顔を上げた。その瞳は、もう氷のように冷たくはなかった。 「私は……あなたの『優秀』さを見誤っていました」 「え? 優秀? 俺が、ですか?」 光輝が、きょとんとした顔で自分を指差す。
(そうだ。課長は言っていた。「優秀らしい」と) 律香は、今日、五十嵐課長に尋ねたことを思い出していた。 『課長。天野さんを「優秀だ」と言ったのは、どういう意味ですか』 『ああ、彼かい? 確かに、事務処理やロジックは君にゃ敵わんがね。彼は、人の懐に入るのが異常に上手いんだ。前の部署でも、どれだけクレーマーを手懐けたか……。あれは、君や私にはない「優秀」さだよ』
(「優秀」の定義が、私と違いすぎた) 律香は、自分が切り捨ててきた「感情」というノイズが、自分の「論理」を支える土台そのものであったことを、この二十歳の青年に、今、教えられた。 「鉄の処女」の仮面が、音もなく砕け散った。 彼女は、銀縁メガネの奥の瞳を、驚きに見開いたまま、返す言葉を何も見つけられなかった。
*
律香は、一歩、光輝に近づいた。 シニヨンにまとめられた髪、完璧なブラウス、銀縁メガネ。外見は「鉄の処女」のままだ。 だが、その口から出た言葉は、彼女の人生で最も非論理的で、最も勇気あるものだった。
「天野さん。あなたの……その『優秀さ』が、私には、必要です」 「……はい?」 「私と……その……パートナー、シップを……」 (ダメだ、言葉が硬すぎる) 律香は、ぐっと唇を噛んだ。 「……あなたの『人を思いやる心』が、欲しい。私を、助けてくれませんか」
それは、論理(ロジック)100点、ライフ(家事・感情)0点の女が絞り出した、人生初の「告白」だった。 光輝は、数秒間、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。 目の前の上司が、何を言っているのか、理解が追いつかないようだった。 やがて、その言葉の意味が、じわじわと彼の脳に染み渡っていく。
「…………えええええええええっ!?」 静かなフロアに、彼の素っ頓狂な声が響き渡った。 「い、今、それって……もしかして……!」 「……それ以上、言わないでください」 律香は、羞恥で顔を真っ赤にし、俯いた。銀縁メガネがずり落ちそうになる。 「俺……俺なんかで、いいんですか!? 氷川さんの、その……お、お助け……?」 「……あなたがいいんです」
光輝は、自分の頬をぺちんと叩いた。 それから、律香が会議室で山田に見せたよりも深く、勢いよく頭を下げた! 「よ、よろしくお願いしますっ! 俺、氷川さんのこと、人として、すげえ尊敬してます!」
律香は、その「人として」という言葉に、胸が温かくなるのを感じた。「鉄の処女」としてではなく、家事壊滅で、人の機微に疎い、不完全な自分を、彼は受け入れてくれた。
光輝は、ばっと顔を上げた。その笑顔は、太陽のように眩しかった。 「やりましたね、氷川さん! これで俺たち、二人で生きていけますね!」 「……ええ」 律香は、顔を赤らめたまま、小さく頷いた。 「鉄の処女」が、ふっと、柔らかく笑った。
だが、その直後。 光輝は、何かを思い出したかのように、あっと声を上げた。 「……あ、でも、氷川さん」 「……何ですか」 「俺たち……家事、どうしましょうか?」
「炭のおにぎり」と「ブロックタイプの栄養調整食品」。 互いの「ポンコツな私生活」が、同時に脳裏をよぎる。 律香は、一瞬きょとんとして、それから、耐えきれずに声を上げて笑ってしまった。 彼女が、職場で初めて見せた、心からの笑顔だった。 「……それこそ、非論理的ですね」 「ですよねー!」 「これから……二人で、ゆっくり考えましょう。それも、きっと……非効率で、楽しい考察になります」
家事レベル0同士。 完璧な論理(ロジック)と、完璧な思いやり(感情)。 二人の「優秀」の定義が重なった、不器用なアライアンスが、今、始まった。
氷の「鉄の処女」は仕事も家事も完璧(にしたいだけ) ~高卒後輩の「優秀」の定義が私と違いすぎる~ トムさんとナナ @TomAndNana
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