氷の「鉄の処女」は仕事も家事も完璧(にしたいだけ) ~高卒後輩の「優秀」の定義が私と違いすぎる~

トムさんとナナ

第1章:鉄の処女と「優秀な」高卒

時刻は午前十時を回ったところ。  中堅SIer「ネクサス・ソリューションズ」の第3開発部フロアは、まるで深海のような静寂に満ちていた。聞こえるのは、規則正しく響くキーボードの打鍵音と、サーバーラックの冷却ファンが立てる低い唸りだけ。知的で、プロフェッショナルな職場。それが、氷川 律香(ひかわ りっか)が自らに課し、そして周囲にも求める世界のすべてだった。


 律香、二十八歳。  銀縁メガネの奥にある瞳は、ディスプレイに映る数千行のコードを冷徹に見据えている。きっちりとシニヨンにまとめられた髪は、一筋の後れ毛も許していない。アイロンが完璧にかかった白のブラウスとタイトスカートは、彼女の論理性をそのまま服装として仕立てたかのようだ。


「……高橋さん、1054行目」  背後でレビューを受けていた入社三年目の高橋が、びくりと肩を揺らした。 「if (status == 1)。マジックナンバーです。意図が読み取れない。定数クラスに切り出して、STATUS_APPROVEDのようになぜ定義しなかったんですか? 可読性と保守性に関する基本規約、読み直しましたか?」 「あ、すみません、そこは……」 「『急いでいたから』は理由になりません。あなたの『急ぎ』が、未来の誰かの工数を無駄に奪う。非論理的です。修正してください」


 氷のように冷たく、寸分の隙もない論理的な指摘。  「鉄の処女」。  それが、氷川 律香に向けられる、畏怖と揶揄の入り混じったあだ名だった。  彼女自身、そのあだ名を不快だとは思っていない。むしろ、完璧主義者である自分への賛辞とさえ受け取っていた。論理は裏切らない。感情はノイズだ。この知的労働の現場において、成果こそが正義であり、完璧こそが善だった。


 高橋が青い顔で席に戻っていくのを見送り、律香は自身のタスクに戻る。  やがて、正午を告げるチャイムがフロアに静かに流れ、周囲が「ランチどうする?」と浮き足立つ時間になった。  律香は、その喧騒に加わることなく、自席のデスクの引き出しから、慣れた手つきで二つのアイテムを取り出す。  一つは、銀色のパウチに入った栄養ゼリー。もう一つは、箱入りのブロックタイプの栄養調整食品。  それが、彼女の昼食のすべてだった。  人目を避けるように、素早くそれを胃に流し込む。論理的に必要なカロリーとビタミンは摂取した。合理的だ。  だが、耳に入ってくる「駅前のパスタ、美味しかった」「今度お弁当作ってくるよ」という同僚たちの会話が、無性に彼女の完璧な論理回路を苛立たせた。


 完璧なタイピングが止まったのは、ふと視界の端に入った卓上カレンダーがきっかけだった。  今週末の土曜日。赤い丸印と共に、『沙織 結婚式』の文字。


 (……沙織も、か)


 銀縁メガネの位置を、細くしなやかな指先でくい、と押し上げる。  大学時代の友人からの招待状は、これで今年五通目だ。SNSを開けば、かつての同級生たちが「ママ友」という未知のカテゴリで繋がり、週末の家族サービスや手料理の写真を競い合っている。


 律香は、今年で二十九になる。  仕事は完璧だ。ポジションも築いた。貯蓄も、老後の資産形成も、論理的にシミュレート済みだ。  だが、人生の設計図において、たった一つ、致命的な欠陥(バグ)が存在した。


 (結婚、したい)


 それは、彼女の論理回路では処理できない、非効率で厄介な「願望」という名の感情だった。  結婚。それはつまり、他者との生活の共有を意味する。  そして、律香の完璧なキャリアを根底から脅かす、最大の弱点――「家事壊滅」という現実を直視することでもあった。


 (昼食がこれでは、まともな夕食など作れるはずがない)  思考が、プロジェクトの工数管理から、冷蔵庫の中身(=空っぽ)へとスライドする。  (今夜の夕食はどうしよう)  コンビニのカット野菜とサラダチキンか。それとも、デスクの引き出しに忍ばせてある非常食(昼食と同じ、ブロックタイプの栄養調整食品)か。  完璧な「鉄の処女」の私生活は、論理とは程遠い、破綻した砂上の楼閣だった。この弱点だけは、誰にも知られるわけにいかない。


「あ、氷川さん。ちょっといいかな」  思考の海から引き戻され、顔を上げる。上司である五十嵐課長が、人の良さそうな顔に少し困ったような笑みを浮かべて立っていた。 「はい、課長。何か問題(イシュー)ですか?」 「いや、問題ってほどじゃないんだけどね。第3開発、人手が足りないって話、してたじゃないか」 「はい。現状のリソースでは、次のA案件の改修は三人月(にんげつ)ほど不足が出ると試算しています」 「そうそう。でね、上も色々考えてくれてさ。別部署から一人、異動させてくれることになったんだ。今日から君のチームについてもらう」  律香はわずかに眉をひそめた。この繁忙期に、他部署で「余った」人材だろうか。 「……即戦力の方でしょうか」 「あー、それがね。ちょっと特殊で。人手不足で、急遽、高卒採用の枠から引っ張ってきたんだよ」 「高卒……ですか」


 その単語を聞いた瞬間、律香の思考がコンマ数秒、停止した。  偏見ではない。これは論理的な分類だ。自分たち大卒が四年間かけて学んできた情報工学の基礎理論や、体系的なアルゴリズムの知識。それらを持たない人間が、このプロフェッショナルな現場でどれだけ通用するというのか。


「まあまあ、そんな顔しないで。なんでも、前の部署じゃ『優秀だ』って噂でね。氷川さんがOJT担当として、ビシバシ指導してやってくれよ」  課長はそう言って、背後にいた青年を手招きした。 「天野くーん。こちら、君の指導担当の氷川 律香さん」 「は、はいっ!」


 慌てたような声と共に、一人の青年が前に進み出た。  天野 光輝(あまの こうき)。二十歳だという。  人懐っこい笑顔は、悪くない。だが、少し猫背で、清潔にはしているものの、ワイシャツの襟がわずかによれている。律香の完璧な服装とは、対極にある「抜け感」。 「きょ、今日から配属になりました、天野 光輝です! 早く戦力になれるよう、一生懸命頑張ります! よろしくお願いします!」  深々と頭を下げる光輝を見て、律香は内心で一つ、冷めたため息をついた。  (……「優秀」の定義が、課長と私では根本的に違うようだ)  「一生懸命」ほど、非論理的で曖昧な指標はない。


 *


 OJTは、翌日から早速始まった。  律香はまず、光輝のスキルレベルを測るため、比較的単純な既存機能の「テスト仕様書作成」を命じた。 「これが対象の機能要件定義書と、基本的なテストケースのフォーマットです。まずはこの機能の正常系(ハッピーパス)から、準正常系、異常系まで、網羅的に洗い出して、仕様書に落とし込んでください。期限は明日の正午とします」 「は、はい! わかりました!」  光輝は元気よく返事をすると、資料を両手で受け取り、真剣な顔で読み込み始めた。  (「優秀」の噂。それが本当なら、この程度のタスク、半日もあれば……)  律香は自分の業務に戻りながらも、意識の数パーセントを光輝の挙動に割いていた。


 だが、その期待は、数時間後に最悪の形で裏切られることになる。  昼休みを返上して作業していたらしい光輝が、午後三時過ぎ、恐る恐るといった様子で仕様書をプリントアウトして持ってきた。 「ひ、氷川さん……できました。レビュー、お願いします」 「早いですね。では、見ます」  律香は、自分のディスプレイから視線を移し、赤ペンを片手に仕様書を受け取った。


 ――数分後。  フロアに響いていた律香のタイピング音が、ぴたりと止まった。  銀縁メガネの奥の瞳が、信じられないものを見るかのように細められる。 「天野さん」 「は、はいっ」 「これは、何ですか」  彼女が指し示したのは、テスト項目の一覧だった。  確かに、仕様書通りのテストケースは洗い出されている。だが、問題はその先だ。  「その他」という項目で、仕様書には存在しない、膨大なテストケースが「提案」として書き連ねられていたのだ。


「あの、そこの仕様なんですけど……」  光輝は、律香の冷たい視線に怯むことなく、必死の形相で口を開いた。 「このままだと、ログインに三回失敗したら、仕様通りアカウントロックが掛かりますよね。でも、もし、ユーザーさんが本当にパスワードを忘れただけだったら、すごく困ると思うんです。ロック解除の画面も、ちょっと不親切で……。ユーザーさんが、悲しむと思うんです」 「…………かなしむ?」  律香の口から、体温のない声が漏れた。  理解不能な単語だった。悲しむ? ユーザーが? それは、エンジニアの考慮すべき範疇(スコープ)なのか? 「だから、ここもテストしたいです! ロックが掛かる前に、『パスワードリマインダーを使いますか?』って優しいメッセージを出す機能を追加して、そのテストも……」


 パタン、と律香は赤ペンをデスクに置いた。乾いた音が、静かなフロアに小さく響く。 「天野さん」 「はい!」 「あなたのタスクは、現行の仕様書に基づいたテストケースを作成すること。それ以上でも、それ以下でもありません」 「で、でも……」 「感情論は不要です」


 律香は立ち上がった。完璧な姿勢で彼を見下ろす「鉄の処女」の姿に、光輝はびくりと体を震わせる。 「あなたは、この追加機能提案とテストが、どれだけの工数を発生させるか試算しましたか? プロジェクト全体のスケジュールに対する影響は? 仕様変更は、クライアントの承認が必要な案件(マター)だと理解していますか?」 「そ、それは……」 「それはあなたの『感想』ですよね? 私は『論理(ロジック)』で話してください、と言っているんです」


 冷え冷えとした声が、光輝の「熱意」を真正面から凍てつかせる。 「あなたの『優しさ』や『頑張り』は、このプロジェクトにおいて一円の価値も生みません。むしろ、スケジュールを遅延させ、品質を低下させるノイズです。……時間の無駄でした」


 律香は仕様書を光輝の胸に押し返した。 「『優秀』の噂は、どうやら嘘だったようですね。即刻、仕様書通りの内容に修正してください。再提出は定時までとします」  そう言い放ち、律香は自分の席に戻る。  背後で、光輝が「あ……」と小さな声を漏らしたのが聞こえた。


 (高卒。感情論。非効率。やはり、私の判断は正しかった)


 律香は、自分の論理が証明されたことに満足しながら、キーボードを叩き始めた。  だが、その時。 「……なるほど、ロジック……! 勉強になります!」  背後から聞こえてきたのは、落ち込んだ声ではなく、むしろ感動したかのような、弾んだ声だった。


 律香が怪訝に思って振り返ると、光輝は押し返された仕様書を胸に抱きしめ、なぜか目を輝かせながら、必死にメモを取っていた。 「そっか、俺の『感想』じゃダメなんだ……氷川さん、すげえ……」


 (……何だ、こいつは)


 叱責したはずの相手の、予想外すぎる反応。  完璧主義者である氷川 律香の論理回路が、初めて理解不能なノイズによって、わずかに軋(きし)んだ音を立てた瞬間だった。

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