第3話 蘭、オジイチャンの毛を剃る

 そのまま表門をくぐり、白玉砂利を敷き詰めた駐車場に車をめ、和風の広い玄関脇のインターフォンを押すと、看護師らしい白衣を着た中年女性が出てきた。


 [第2話より続く]




 「Y出張所高齢者サポートセンターの國本と申しますが、アリスタ若葉さんからの依頼で散髪に参りました」


 蘭が訪問目的を告げた。


 「ああ。聞いていますよ」


 どうぞ、とすぐに看護師は主の部屋へ案内しながら、


 「時間はどのくらいでしょうか?その間にお買い物に行ってきたいのですが」


 「45分、2時45分までが私の受け持ち時間になっています」

 と、蘭は答えた。


 介護や身の回りの世話はやればきりがないので、時間内で動くようにケアマネージャーからは言われていた。


 とは言え、体調に不安があるために看護師が常駐しているのだから、時間いっぱい留守にすることはないとも聞いている。


 平屋の大きな建物の庭に面して廊下が続き、その奥まった1室は洋室になっていて、ドアを開けた向こうに、背中を少し起こした大きな電動ベッドに老人が寝ていた。


 「散髪にお見えになりました」

 と、看護師が一礼して言って、そのまま引き下がった。


 「おお」

 老人はベッドの中から鷹揚に頷いた。


 部屋は明るかったが顔中皺まみれで、笑っているのか怒っているのか、蘭には全く老人の表情が分からなかった。


 年齢もまた、わからない。


 60歳なら、父親も50代なので蘭もおよその見当はつく。


 だがそれ以上になると、70歳なのか80歳なのかわからない。それよりももっと上のような気がしたので、90歳を超えているのかもしれないと思いながら蘭はベッドのそばへ行って、


 「アリスタ若葉さんの依頼で参りました。Y出張所高齢者サポートセンターの國本と申します」


 と、頭を下げた。


 「ああ、待っていたよ」


 と、池田老人が笑った。


 今度は本当に笑っていた。


 今の職場に勤めるようになってから、目の動きを見るとおよそ患者の状態がわかると聞いていて、垂れ気味だがまぶたの下の焦点の定まった視線と確かな口調は、まともな老人のそれであるように蘭には思えた。


 「それでは早速始めましょうか。このままで御髪おぐしを切りましょうか?それともソファーの方に移りましょうか?」


 「ソファーの方がいいだろうね」


 老人がベッドから降りようとしたので、蘭は手を貸した。


 その時に老人の枕元にテレビモニターが設置してあるのを見て、蘭は驚いた。


 門に設置されたカメラで来客者をチェックし、それから玄関の様子と居間とキッチンもモニターしているのだろう、画面が4分割されている。


 老人は見た目以上に元気な様子でベッドを降り、しっかりした足取りでソファーへ腰掛けた。


 パジャマも洗濯したてで、部屋も明るく清潔で、とても老人の1人暮らしとは思えなかった。


 おそらく相当なお金をかけて、お手伝いさん代わりに24時間何から何まで看護師に世話させているのだろう。


 蘭はバックからサカと言われる携帯用の理容器具を取り出して、老人の頭からすっぽり被せて首元で止めた。


 中棒のないかさを逆さまにしたような形で、中棒がないかわりに頭の通る大きさの穴が真ん中にあり、首元で止めればカットした髪がその上に溜まって周囲に散らばらないという優れものである。


 「散髪と言ったが、頭のことではないのだがね」

 老人が犬の首輪みたいなサカを首元に付けられて、不満げに言った。


 不満そうな口調も、また抗議している顔も、本当に、不満そうな表情だった。


 「はい。でも看護師さんが戻って来られた時に髪をカットした様子がなければ変でしょうから、ほんの形だけカットしますね」


 それは古橋にも言われていたことだった。


 「そりゃあそうだ」


 「それからお望みのところをカットしますから」


 蘭はそう言いながら老人の襟足に櫛を当てて、ハサミを滑らせた。


 「なかなか器用な手つきだが、経験があるのかね?」


 「理美容師の国家資格は持っています。本当は洗髪してからカットをした方が気持ちがいいと思うのですが」


 「ぼくもそう思うが、風呂に入った時じゃないと出来ないな」


 「そうですね」


 「じゃあ今度、風呂場で頼むよ」


 「それはちょっと」


 蘭は笑って首を振って、老人の耳の後ろから襟足をさっとハサミで刈り上げた。体から変な臭いもしないし、髪もよく洗ってあるが、風呂場まではつきあえない。


 「残念だな。看護婦で我慢するか。君のような若い子に洗って貰えると、もうすぐやってくる極楽での生活を先取り出来るのだがな」


 「毎日、体を洗ってもらっているのですか?」


 「うん。隅々までな」


 老人がニヤリとするのを横目で見ながら蘭は、充電式の超小型掃除機で髪の処理をして、サカを首元から外した。掃除機もサカも、役所のお金で新しく揃えたものである。


 「じゃあ、始めましょうか」


 蘭が言うと、いきなり老人はソファーに腰掛けたままパジャマのズボンをおろし、白いデカパンも躊躇なくおろして、足首から抜いた。


 羞恥心のカケラもない老人のいきなりの行動に蘭は驚いた。或いは羞恥心はもうなくなった、と演技をしているのかもしれないが。


 しなびた黒ポコチンが現れた。タマを包む陰嚢は先日の渡部老人と同じように、垂れ下がっている。


 男性経験は晃司とチャラ男の2人だけだが、渡部社長同様、こんなに垂れ下がった陰嚢を蘭は見たことがなかった。


 晃司とチャラ男の2人とも、陰嚢はパンパンに張っていた。


 もしかしたら性欲と陰嚢の張りは、何かの関係があるのかもしれないと思わざるを得ない。


 池田老の頭髪はオール白に近いが、陰毛は所々に白いものが混ざっている程度で、黒いが量は多くない。


 「全部、きれいに剃っていいのでしょうか?」

 と、蘭は聞いた。


 「ああ」

 老人はぶっきら棒に頷いた。


 急に不機嫌になったというよりも、孫のような女に医療措置以外でこんなことをさせているという自身への後ろめたさが、不意に襲ってきたのかもしれない。


 それはもしかしたら正常な意識で、しかしそれを越えると普通では得られない思考上の快楽があるのもまた知っていて、それだけは老い先短い人生の恥をかなぐり捨てても生のあるいま、得られるうちに得ておかなければならない感覚だったのかもしれない。


 体が感じる快楽は少なくなってくるのだろうから、そのぶん思考の快楽で穴埋めしなければ生きていても面白くないのだろうと察すると、自然の摂理とはいえ、蘭は人間の老化の最後の段階に来ているこの老人のことが気の毒になってきた。


 蘭はいつものようにシェービングクリームを掌に吹き付けて白い泡の山を作ると、両手に分け、老人の性器の上の毛に撫でつけていった。


 毛根にしみ込ませるように指で毛をかき混ぜる。それから両方の指で陰嚢を揉むようにして塗してゆく。


 若い人ならこれだけで勃起どころか射精する人も見てきたが、尿道口まで皮の被った老人の親指ほどのしぼんだペニスは、ピクリとも動かない。


 「君はゴム手袋を使わないのだね」

 と、老人が言った。


 「はい。失礼な気がするのです。お客様は本当に介護を受けておられるのでしょうか?」


 古橋には寝たきり老人のように言われていたが、とてもそんな風には見えない。


 「うん。派遣の看護婦でね。体が動かないような振りをしているんだ。だから小便も取ってもらうよ。もっとも、その時に看護婦はゴム手袋をしやがるがね」


 「じゃあ陰毛がないと、看護師さんに見られた時に変に思われないでしょうか?」


 そう言いながら蘭は、自分が帰ったあとのことを考えてゾッとした。


 オシッコを取って貰うと言ったが、蘭が帰ったその後で看護師が老人の尿を取るとき、陰毛が無くなっていれば、その処置をしたのは蘭だとすぐにわかるではないか。


 そんな噂が空中を飛ぶように職場へ届いてゆくのは、想像を絶するくらい早いものである。


 蘭は新たに生じた不安に怯えながら、T字型の安全カミソリをペニスの周囲に生えた毛に当てて、剃ってゆく。


 「医師による陰毛毛嚢炎もうのうえんという診断書を取っているから、それは心配しなくていいよ。君のアリバイ用だ。逆に看護婦がいろいろ考えるのを探るのが楽しみなんだ。年を取ると恥ずかしいことは何もなくなるし、逆に相手が恥ずかしがるのを見て人生を楽しんでいるのだ。それともうひとつ、看護婦は今の買い物を済ませたら勤務を終えるから、交替した看護婦は前任者がやったと思うだろうね。元々そんな医療措置は看護婦の仕事だから、君が疑われる心配はしなくていい」


 そう言われて蘭は安心すると同時に、蘭が〈陰毛を剃ったのではない〉というアリバイをしっかりとこの老人が作ってくれている気遣いに、逆に驚き、感謝した。


 アルツハイマー型認知症の1期から2期への移行期だと古橋には聞いていたが、そんな人にこんなアリバイ工作が出来るのだろうか?


 「じゃあ私ももっと恥ずかしがった方がいいですか」

 と、蘭は笑った。


 「いや、君は自然でいいよ。作った羞恥心とそうではない羞恥心の見分けが付かんほど、ボケてはいない」


 老人は笑ったあと急に真顔になって、


 「私のことは何か聞いているのかね?」


 「いえ。何も知りません」


 「気にならないのかね?」


 「こんな仕事をしているので、見ざる聞かざる言わざるの三猿で、与えられた仕事をするようにしています」


 「そうか。若いようだが、幾つだね?」


 「21歳です」


 「古橋君と関係があるのかね?」


 「関係って、体の関係ということでしょうか?」


 老人のペニスの毛を剃っているので、会話の内容も明け透けになる。


 「関係と言ったら、それしかあるまい」


 「ありません」

 蘭は笑いながら首を振った。失礼なことを言われたとは思っていなかった。


 「そうか。付き合っている人はいるのかね?」


 「付き合っている人がいれば、この仕事は請けません」

 晃司のことをチラと考えたが、ヤツはただの仕事上のパートナーにすぎない。


 「余程のことがない限り、そうかもしれんな」


 「余程のことって、何でしょうか?」


 「技術系公務員だから普通に生活していればお金に困るようなことはないのだろうが、人間の欲はきりがないからな」


 「臨時雇いなのでお給料は満足出来るものではありませんが、親と同居なので、今のところは自分の面倒だけみればいいのです」


 「そうか。臨時雇いなのか。こんなことをわしが言えた義理じゃないが、臨時雇いならもっとまともな職についた方がいい。特に国家資格を持っているのなら、他に生かしようは幾らでもあるだろう」


 「はい。私もそのつもりなのですが」


 「そのつもりで、何でこんなことをやっているのだね?」


 「今は3年という期限付きの任用で辛いですが、経験を積んで公務員試験に通って、このまま公務員になりたいと思っているのです」


 「公務員か。あんなつまらん連中の仲間になるのはやめたまえ」


 「つまらない人たちですか?」


 「そうじゃないかね。今の公務員をみたまえ。楽をして将来を買おうとする怠け者ばかりじゃないか。そうは言っても戦前戦後の公務員は違った。敗戦後の日本国を、また貧しい国民を何とか幸せにしてあげたいという気概があった。今の彼らにそんな気骨があるだろうかね。考えていることは失点しないということだけだ。実に情けない連中に成り下がってしまったものだ」


 蘭はそれには答えず、3年間の辛抱だと心に言い聞かせていた。その間に公務員試験を受けなければならないので、その準備も考えている。


 蘭の手は動いてゆき、元気の全くないペニスを手で押さえて陰毛を剃り上げ、陰嚢を引っ張ったり伸ばしたりしながらポツポツと生えた毛も1本1本、剃り上げていった。


 全て剃り終えると、剃り残しがないか横から斜めからためつすがめつ眺めて、それから濡れたコットン紙でペニス周りから陰嚢を拭きあげて、老人を見あげた。


 老人はソファーの背もたれに背をもたせかけて目をつむっていた。


 「終わったかね?」


 「はい」


 「悪いが物のついでだ、タマとチンコを揉んでくれんだろうか」


 老人は目をつむったまま言った。懇願しているのでもなく、また命令口調でもなかった。


 そんなことを言われるときっぱりと断ろうと思うのに、例の渡部の時もそうだったが、老人を目の前にすると、蘭は出来ることはしてあげてもいいと思ったりする。


 ことにさっきこの老人は蘭のことを気遣って、アリバイまで用意してくれていた。


 そのお返しというわけではないが、老い先短い人生にほんの少しでも喜びをあげられるとすれば、それもアリかなと思うようになっていた。が、今日もそうだが、はいという返事は出来ない。


 「イキたいのですか?」


 「わしらにとってイクというのは、あの世にイクという、逝くという漢字しか連想できないのだが、射精をしたいのか、という意味かね?」


 「はい」


 「それなら射精をしたのはもう何十年も前のことだ。もう粉も出んよ」


 蘭は黙って、親指くらいのペニスをつまんで、そっと皮を剥く。それから少し指を上下に動かす。


 「済みません。私・・・」


 そのうちに看護師の車が門を入って来る音がしたので、時間は早かったが蘭は道具を片付けた。


 老人も自分でパンツをはいてベッドへ戻ってゆき、蘭は一礼して部屋を出た。


 蘭は2件目の訪問先へ向かいながら切なくなった。


 いくら公務員になるためとは言え、どうしてこんな仕事をしなければならないのかと落ち込んだ。


 大学生の陰毛を剃ったり、ゲイを使って〈5分フェラ抜き合戦〉をやったりしているが、あれとはまた違う人生の最終の性を相手に仕事をしている惨めさに襲われて、気持ちが凹む。


 「また来てくれるのだろ?」


 蘭が部屋から出て行こうとすると、老人は悲しそうな目で念を押した。


 とてもアルツハイマーを患っているとは思えない目だった。

 いや、こんな仕事をするんじゃないと小言を言ったくせに、また来てくれと言うのは、すでに認知症そのものだったのかもしれないが。


 「とても良かったよ」

 と、老人は褒めてくれた。


 何が良かったのかはわからないが、褒められてもちっともうれしくなかった。以前、美容室で仕事をしていた時には客のひと言が嬉しかった。


 〈あなたの洗髪はとても気持ちがいいわ。指先のこう、力の入れ具合が何とも言えない、いい感じなの。眠っちゃいそう〉


 髪を洗いながら指先で軽く頭皮のマッサージをするのがそのコツだった。


 それが洗髪を続けてきていつからか会得した技術で、客の間からも指名が多くなり、そこを〈トップディレクター〉の里村につけこまれた。


 里村専用の洗髪係に指名され、いいように遊ばれた。


 その日の夜7時、蘭は1度家へ帰って銀座へ向かった。


 今日の午後、本来の仕事とは別に古橋の仕事をして精神的には参っていたが、以前から続けていた〈剃りびと〉としての仕事が入っていたので、飛ばすわけにはゆかなかった。


 以前から続けている敗戦剃毛儀式と〈5分フェラ抜き合戦〉は、やればやるほど自分の評判を落としているということに気づいたので今はやめ、個人的な仕事だけを請けている。


 プライベート用と仕事用というよりも、自分の日常生活を含めた公務員の臨時職員用と、陰毛カットのバイト用との2台の携帯を蘭も持つようになっていて、そのバイト用の携帯に3日前、銀座の或るカットサロンのマネージャーをやっている山形から今日の仕事を聞いていたのである。


 いつかの会社社長渡部のヘアカットを、もう1度して欲しいと依頼されていた。


 と言っても渡部のヘアカットは、同じ陰部ヘアのカットでも、陰嚢の部分だけだったが。


 花金の夜8時、街は人で溢れかえっていた。


 臨時とは言え公務員になってからというものは、人並みに週末になるとウキウキしていたが、気持ちは昼の池田老人のことで沈んだままだった。


 体よりも、心の方が折れていた。

 こんなことをやっていていいのか、という鉛の塊がのしかかって、心が潰れそうになる。


 今までは〈敗戦剃毛儀式〉も〈5分フェラ抜き合戦〉もバイト感覚でやってきた。


 その延長で古橋から言われて老人の陰毛の処理を今日はしたのだが、こちらの方は何倍も心が軋み、疲れる。


 そんな蘭の表情に心配の種を見つけたのか、母親が声を掛けたが、職場の歓迎会があるからと言い訳をして、家を出た。


 いつも銀座へ出ると、例のイケメンが来ているかもしれないと例のカフェへ寄るのに、今夜はその気になれなかった。


 [剃りびと パート7 了 パート8へ続く]


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剃りびと 蘭&護(7)蘭の1日  蘭&本当のオジイチャン 押戸谷 瑠溥 @kitajune

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