第2話 蘭、最悪の仕事が回ってくる

 「済みません。家で私を呼んでいるようです。今のお話はよく考えて、私の方から電話をします」


 蘭はそう言い残して、逃げるようにその場を去った。



 [第1話から続く]




 公務員の仕事は平板だった。


 これに較べれば美容師の仕事は、たとえ洗髪要員であっても毎回客が代わるというそれだけで、毎日がスリルに富んでいた。


 それに店が終わったあとのパーマやカット技術習得の時間は、苦しいながらも自分を生き生きとさせてくれていた。


 それに引き替え今はただ老人ホームを回るだけの仕事であり、出会う人のすべてが老人というのも気が滅入る。


 その週の金曜日の午前中、指示された訪問先をこなして最後に〈アリスタ若葉〉を訪れた。


 官報を職員へ手渡すと、奥に陣取った事務長の古橋が声をかけてきた。


 前任者から引き継いだ時に古橋には挨拶を済ませていたが、その時には初対面同士の型どおりの挨拶に徹していて、初めて日常会話らしい会話を交わした。


 さすがに入居するだけで億単位の金が必要だと言われる高級老人ホームだけに、施設内は清潔で、また事務室も老人ホームの事務室という古びた感じもなく、スイーツ店か何かのような明るいなごやかな雰囲気の中に、最新の事務机が並んでいる。


 「仕事は慣れたかね?」


 古橋は事務長用の大きなデスクを離れて、ナイスミドルそのままの微笑で声をかけてきた。


 手にはクリアファイルを持っている。


 山形やトップディレクター里村のように真夜中に蠢くといった感じの中性的な男とは真反対の、太陽を浴びながらテニスかヨット遊びを趣味にしているといった雰囲気たっぷりの、快活な男性だった。


 「はい。簡単ですから。でもやっぱり3年が限度の期間任用だと言われました」


 「まあね。その間に役所に必要な人間だとアピールすることだよ。公務員試験を受けるのは必須だよ」


 ところで、


 と古橋は職員の机から少し離れた応接セットの方を指さして、そちらへ移りながら小声で続けた。


 「ウチの老人ホームは訪問介護もしているのだが、その訪問先の1つに認知症と呼ばれる痴呆老人がいて、その人から散髪の依頼を受けているんだ」


 「ええ。その話なら聞いています」

 今朝、蘭はケアマネージャーからその話を聞いていた。


 〈アリスタ若葉〉の訪問介護先で散髪の要望がある。


 本来は〈アリスタ若葉〉が人材を確保して、

 自社の責任で行うか、

 被介護者自身に理髪店へ行ってもらうのが原則だが、

 どちらも無理なので仕方がない。


 出来るようならやってくれ、と。


 無理なら断っても構わない。そう指示されてはいたが、認知症というのは聞いていない。


 だから、


 「認知症なのですか?」

 と、モロ不安顔で聞いた。


 散髪するのは構わないが、鼻水やよだれを垂れ流されてもいちいち手を止めて拭いてあげることは出来ないし、また暴れられても、またとめどなく話しかけられても、困る。


 そんな現場で働く人もいるので申し訳ない気持ちになるが、そんな仕事は正直したくない。


 「アルツハイマー型認知症の第1期から2期への移行期で、時に自分がわからなくなることもあるようだが、通常、頭はしっかりしている。1人暮らしだが24時間看護師がついているから、身ぎれいにもしている。看護師は君が作業する45分間だけ、買い物に外出する」


 「本当に頭の、散髪ですか?」

 と、蘭は聞いた。


 先日、山形に紹介された時、古橋からズバリ老人の性のことを言われていたので、蘭もある程度覚悟はしていた。


 それに同じ老人の会社社長、渡部の陰部の毛を剃っていることを山形が喋っているかもしれないので、就職の世話をして貰ったくせに今更そんなことは出来ない、とお高く止まるわけにもゆかない。


 古橋は首を振って、


 「名目はね。本当は陰毛の除去を希望している。だが、ウチとしては頭の方も散髪してあげないと、介護としての点数が稼げない。というよりも看護師が怪しむ。頭の方の散髪は役所の表の給料で反映されるだろうから、下の方の散髪代はこちらから別封筒で支払うよ」


 「今までもあったのですか?」


 「ああ。半年かそこらに1度ずつ。今まではちょっと経験のあるキャバクラ嬢に頭と下半身のソレを頼んでいたのだが、頭髪の散髪は厳密に言えば違法なので、君にお願いしたい。万が一にもそういうことはないと思うが、話が外に漏れた時は、陰毛の処理は知らぬ存ぜぬで通し、いよいよの時は要介護老人から暴力をふるわれそうになったので仕方無く、ということにしてほしい。その時にはこちらで法的手段を講じて君を守る。と言っても公にすると君の名前がバレるので、裁判沙汰にはしない」


 蘭は頷いた。

 勤務2週間目で最悪の仕事が回ってきた。下の毛の処理だ。


 要は若い女にオチンチンを触ってもらいたい、或いは剃られることに快感をおぼえる類の人間相手ということなのだろうが、認知症の老人にそんなナマの感情があるとは蘭には思えない。


 それとも認知症は後天的発病の1つであり、性欲は人間の本能であるからして、別物なのかもしれないが。


 「2件の散髪依頼があり、1件目の池田さんがそれだ。いきなりでキツイと思うが、よろしく頼むよ。2件目は本当に頭の散髪だけだ」


 古橋は1枚の書類をファイルから取り出して、何事か書き込んで判子を押して、蘭の方へ差し出した。


 Y高齢者サポートセンターへの連絡書で、世田谷区の池田万次郎氏の散髪依頼。もう1件はやはり世田谷の猪熊義弘氏の散髪依頼、とある。


 おそらく近くなのだろう。


 時間も2時から2時45分。

 そして猪熊氏の方は3時15分から4時という予定が組んである。


 そして役所へ帰れば5時前。


 15分でその日の日報を仕上げ、5時15分に退庁ということだ。よほどのことでもない限り残業手当をつけないで済む、公務員の立てたゆるい時間割タイムテーブルである。


 「こういう時に君の国家資格がモノを言うのだよ。いざ正職員として雇用する時には、君のように国家資格を持っている人の方が断然優位に立てる」


 そう聞いて蘭は何となく納得した。


 本当にそうなのかどうか、或いは驚くような高学歴者との個人戦になったとき、技術系が勝てるのかどうかは面接官の気分ひとつだろうし、その時の求人状態にもよるのだろうが、言うことに筋は通っている。


 その連絡書をお守りのように持って、正確に午後1時に役所の軽乗用車で出て、ナビを頼りに現場を確認してからコンビニの駐車場で時間調整をして、再び世田谷の高級住宅街に入り込んだ。


 池田という表札の掛かった数寄屋造りの表門を構えた大きな屋敷だった。


 その表札の池田という草書体文字が風化して、かすれた墨の流れはいかにもその家の家格を感じさせる。


 数寄屋門の向こうの邸内に高く伸びた木々と、周囲に巡らされた白壁土塀は旧家の趣を湛え、都内の住宅とは思えないほど落ち着いた古い屋敷の佇まいを見せている。


 そのまま表門をくぐり、白玉砂利を敷き詰めた駐車場に車をめ、和風の広い玄関脇のインターフォンを押すと、看護師らしい白衣を着た中年女性が出てきた。


 [第3話へ続く]

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