剃りびと 蘭&護(7)蘭の1日  蘭&本当のオジイチャン

押戸谷 瑠溥

第1話 蘭、臨時公務員として働き始める



 蘭がQ区役所の出先機関である〈Y出張所高齢者サポートセンター〉で働き始めて、2週間が経とうとしていた。


 季節は秋に入って10月半ばである。


 職場の雰囲気は和気藹々としていて、互いに助け合いながら仕事をこなしているといった感じだった。


 あの日、都内で高級老人ホームを運営する〈アリスタ若葉〉の事務長古橋のアドバイスに従って蘭は、その日のうちにQ区役所高齢福祉課の今井係長に電話を入れた。


 今井係長にはすでに話が通っていたようだが、高齢福祉課ではハローワークへ求人を出しているので、まずはそちらの紹介状を持って来るようにと言われた。


 昨今の安定を求める公務員人気の高さから、臨時職員1人の雇用に際しても透明性を保つ、いや透明性を偽装するために、ハローワークの紹介状は形式上必要であるらしい。


 その際の面接でも今井係長は採用するとはひと言も言わずに、採用された後はQ区内に在る十数カ所の出張所の中の1つ、Y出張所内の〈高齢者サポートセンター〉での勤務になるがいいか?との了解を面接者にいちいち確認し、制度上3年の、期間限定雇用だと説明した。


 蘭の前に就業希望者が、また後にもそれらしいのがいたので、数人の面接を今井はその日こなしたようだった。


 「3年ですか?」

 と、蘭は不満の気持ちを穏便にあらわしながら、今井に問い返した。


 古橋から聞いてはいたが、そんな制度が実際に運用されていることが信じられなかった。


 アルバイトと分かって応募したとは言え、少なくとも働く者は本採用を求めているのに、3年以内に本採用にならなければ、その先はどうなるのかという不安がある。


 勤務評定が低ければ制度通り雇用終了になっても仕方がないが、その職場にとって必要な人間であることが証明されたなら、正式に採用した方が雇用主にとっては、つまり納税者のためになるのではないかと思ったりする。


 3年無駄に過ごしたその先にまたどこかで3年と続いてゆけば、結局その程度のキャリアしか残らなくなる。


 そんなものはキャリアではなく、職歴に加えるのもはばかられる。


 その程度なら3年間の職歴を消し、海外へ出て人々の生活を見てきたとホラでも吹いた方が、余程魅力的な人間に見える。


 「雇用の機会を多くの人にという措置なのですよ。國本蘭さん、いい名前ですね」


 30代始めらしい今井係長はそつなく説明して、お詫びのしるしか、蘭の名前を褒めた。


 そうやって面接の翌々日、蘭は今井から採用の電話を受け取って、10月1日から念願の公務員に向けての第1歩を、Q区役所〈Y出張所高齢者サポートセンター〉で踏み出したのだった。


 決め手はやはり老人ホームの事務長古橋が言った通り、散髪が出来るという蘭の国家資格のようだった。


 本来なら4月1日からの採用になるのだが、今年度は中途退職者が出たために臨時の措置で10月からの採用になったらしかった。


 6ヶ月後に権利が生じるようだが、有給休暇こそあるものの、臨時職員という身分のせいか、給料は日雇い人夫同様働いた日数計算で手取り月12万少々という、金銭面で言えば職員とは天と地の薄給だった。


 給料が安いからか、或いは臨時の新人職員だからか、はたまた公務員の仕事というのはおしなべてこんなものなのか、仕事は簡単だった。


 高齢者の相談窓口係の1人として、高齢福祉に関わる相談を受け、申請手続きを含む関係機関との連絡調整などを行うことを主とする業務である。


 保健師や社会福祉士がいて、蘭は主任ケアマネージャーの指示に従ってY出張所管内の老人ホームや介護施設を回り、役所からの連絡事項を伝え、現場の様々な意見要望を吸い上げて帰るというのがその仕事の内容だった。


 その管内には古橋が事務長を務める高級老人ホーム〈アリスタ若葉〉も含まれている。


 そうやって2週間が過ぎて新しい職場にも慣れた土曜日の夜、蘭は赤坂へ出かけた。


 以前1年半ほど勤めた〈高橋よしひろカットサロン〉のトップディレクター里村から不意の電話があり、赤坂サカスに近いビルの地下に最近オープンしたばかりのラグジュアリーバーへ出向いたのである。


 巧く遊ばれて捨てられた里村から電話がかかってきただけで、ホイホイと出向く自分に呆れるやらまた腹立たしさもおぼえるが、彼と過ごした濃密な時間は、いま現在臨時とは言え公務員としての行動規範に縛られている蘭にとっては、蜜を舐めるような甘い思い出があった。


 豪華な雰囲気の中で最先端のサウンドと料理とカクテルが気軽に、しかもリーズナブルな料金で楽しめると言われて評判の高いバーだけに、店内は満席状態だった。


 里村は先に来て待っていた。


 20代後半から、セレブ御用達の〈高橋よしひろカットサロン〉でカリスマ美容師としてマスコミに持て囃され、すでに10年以上トップディレクターとして現場を仕切っている。


 高橋がテレビや雑誌で外に向けて発信しているのに対して里村は内部を固め、ちょうど車の両輪のように2人がそれぞれ巧く仕事をこなし、現在の〈高橋よしひろカットサロン〉の名は業界では不動の地位を築いていた。


 「久しぶりだね」

 里村は蘭が姿を見せると微笑した。


 面長の顔に長めの前髪とウルフカットが良く似合う中性的な風貌に、華奢な体躯を包んだベルサーチの銀ラメシャツがぴったりと張りついて、もうすぐ40になるとは思えない若々しさだった。


 「こんな所があったのですね」


 蘭は以前の里村との経緯もすっかり忘れて微笑して、初めて入ったラグジュアリーバーと言われる店内の様子を眺めた。


 長いカウンターがあり、ボックス席もあり、蘭はまだ行ったことはなかったが、流れているBGMがロック系かディスコ系の違いだけで、おそらくひと昔前の〈高級クラブ〉はこんな風ではなかったかと想像した。


 晃司が連れて行ってくれる居酒屋とは雲泥の差で、遊び専用の女だと思い知らされた時には傷ついたはずなのに、やはり里村は蘭のような若い女にも女王様の気分を楽しませてくれる、これが男友達と言っていいのなら、未だに未練が残るたった1人の男友達だった。


 その証拠に里村が気を利かせて頼んでくれていたのであろうカクテルが、蘭が椅子に座ると同時に運ばれてきた。


 それが里村とデイトをしていた時にいつも飲んでいたカクテルだったので、蘭はまたホロリときた。


 「今、どうしているの?」

 と、里村が爽やかな微笑を振りまきながら聞いた。


 「辞めて暫くはプー子をしていましたが、この10月から準公務員です。3年間の期限付きの臨時雇いってことですけれど」


 「そんなの、何がいいんだよ。戻っておいでよ」


 「今日、私を呼んだのはそのことですか?」

 蘭はただ笑うだけだった。


 いつでも抱ける、都合のいい女になれってこと?とは口が裂けても言えなかった。


 妻子があると知って付き合ったものの、やはり少しの夢を見て、そしてボロきれのように捨てられたが、今そのことを未練がましく愚痴ったら自分が惨めになるだけだった。


 「今度さ、完全にセレブ専用の美容スタジオをオープンするんだけどさ、スタッフとして手伝って欲しいんだ」


 「セレブ専用ですか?今だってセレブ御用達なのに?」


 「うん。完全に個室。ほら、セレブって、人と顔を合わせたくない人種でしょ。その1点だけをコンセプトにした豪華な美容スタジオ」


 「洗髪要員として、ですか?」


 「当面はね。何しろ君の洗髪は評判が良かったからね。カット技術もしっかりしているから、1年後にスタイリスト。後は君の頑張り次第」


 蘭はその話に心を動かされた。少し道をそれてしまったが、美容師は嫌いな職業ではない、というよりも好きな仕事だ。


 蘭の迷った顔を見て、


 「仕事の話はここまで。少し時間はあるから、考えてみて」

 と、里村は笑った。


 それからの里村の話は、老人ホームや介護施設を回って歩く辛気くさい毎日にウンザリしていた蘭を、夢の世界へいざなった。


 〈高橋よしひろカットサロン〉と張り合っている他店の裏話や、芸能界の話を聞かせ、蘭のカクテルがなくなれば、次はこんなのを飲んでみれば、とかゆいところに手が届くように里村はサービスに徹してくれた。


 蘭はそのカクテルの口当たりの良さと、里村の話の面白さにどんどん前のめりになってゆき、いつの間にか彼に対して警戒心が薄れてきている自分に気づいていた。


 というよりも、里村から電話がかかってきた時、もしも誘われたら卓袱台返しをしてやろうと意気込んで来たものの、その裏ではわざわざ勝負下着をつけてきたのも事実であり、その時点で彼を許している自分を裏側から見ていた。


 蘭の、というより若い女のそんな気持ちはすっかり読まれていたのだろう、少しカクテルを楽しんだあと、里村は自信たっぷりな表情で蘭を見つめて囁いた。


 「出ようか」


 蘭はまるで蛇に睨まれた蛙のように身を固くしながら目を伏せるしか術がなかった。


 これで里村の、完全に都合のいい女に成り下がったとの自己嫌悪は、このあとのめくるめくひと時を想像しただけで、雲散霧消した。


 念入りな蘭への愛撫。


 これでもか、

 これでもか、


 と執拗に舌で敏感な部分を攻めながら蘭のM的指向を刺激して、目の前に餌でも放るようにペニスを置く。


 蘭は夢中でそれにしゃぶりつく。


 そんなことを想像するだけで、蘭はもう身動きが出来なくなっていた。


 その時、幸か不幸か蘭の携帯がメールを受信して振動した。蘭は里村に断って、携帯を取り上げた。


 山形からのメールが入っていた。


 〈明日、日曜日だけど時間、取れる?〉


 それを見て蘭は不意に正気に戻った。


 1度捨てられた男にホイホイついて行くほど自分は情けない女なのか、と突然いきり立った。


 「済みません。家で私を呼んでいるようです。今のお話はよく考えて、私の方から電話をします」


 蘭はそう言い残して、逃げるようにその場を去った。


 [第2話へ続く]

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