流し雛

明(めい)

第1話



           1


おばあちゃんが自宅で息を引き取った瞬間、枕元に飾られていた写真立てが突然倒れた。枕もとに回り込んで、写真立てを拾いあげる。

 

数年前から、おばあちゃんはこの写真を時々眺めていた。


部屋を整理していた時に出てきたのだという。あまりに大事そうにしていたので、私はその後姿を遠目から見ているだけだった。だから写真をじっくり見るのはこれが初めてだ。

 

戦前か戦後かわからないけれど、多分そのあたりに撮られたものだと思う。


セピア色の写真には、おばあちゃんとその兄弟姉妹が映っている。


誰も笑っていないのは、この時代の特徴なのだろうか。


三男三女の、一番年上の長女であるためか、おばあちゃんは当然のように真ん中にどっしりと座っていた。


十代後半から二十代前半くらいだろうか。


その右側に、三男のミツルおじさんがいる。今は八十過ぎだけれど、写真の中は少年で目は虚ろだ。


私が知っているのは、ミツルおじさんと、おばあちゃんだけ。他の兄弟姉妹は顔すら合わせたことがない。


「ななみ、そんなところに突っ立っていないの」

 

お母さんの叱責が飛んだ。お母さんの隣にはいつの間にか往診でお世話になっていた医師がおり、邪魔だと言いたそうな顔をしていた。


写真立てを元に戻し、その場を離れる。医師が厳かに死亡の確認をしだした。「老衰」と診断がくだる。


看取ったのは両親と私だけだ。家族の誰もが老衰だとわかっていたので、重苦しい雰囲 気は漂うものの特別悲しみに満ちているわけでもない。


享年九八歳。大往生だと言ってしまえばそれまでだが、今日の午前三時から九時間ほどの苦しみかたは、半端ではなかった。


「強深瀬が見える」

 

おばあちゃんは繰り返しそんなことを叫んでいた。強深瀬とは三途の川で罪人が渡る恐ろしい橋のことだ。本当にそんな橋が見えていたのか、死への恐怖から叫んでいたのかは謎だ。


お母さんが必死でおばあちゃんを慰めているのをやはりちょっと離れたところで見つめながら、人間というのは老衰であっても楽に死ねないものなんだなと思った。

 

五年前、私が三十歳の時に同じく老衰で死んだおじいちゃんも、死に際は苦しそうだった。但しおじいちゃん場合、苦痛はおばあちゃんのやかましさが最大の理由だった気がする。


「さっさと死んでしまえ!」

 

亡くなるのはもう時間の問題、という時におばあちゃんはおじいちゃんの耳元でそう言い放ち、一時間ほどおたまをフライパンの裏で叩きつけていた。

 

あの光景は今でも忘れられない。おじいちゃんはたびたび昏睡しながらも、煩わしそうに顔を歪めていた。


なぜフライパンを叩いているのかと私が聞くと、「おじいちゃんをあの世へ送るための応援だよ。野球でも観客が似たようなことをやっているじゃないか」という返事が返ってきた。


野球で応援するのはメガホンやペットボトルで、時と場合も違うだろうと思ったけど、おばあちゃんなりの理由はあったようだ。

 

おばあちゃんは非常識でなんでも我流で、粗暴で攻撃的な性格だった。考えるより先に口が出る、行動してしまう、その言動の度が過ぎている、といった感じの。

 

私の名付けをしたのはおばあちゃんだったので、小さい頃はそれが嬉しくてよくなついていたけど、中学に入ったあたりから私はおばあちゃんと距離を置くようになった。


おばあちゃんの性格がわかってきたからだ。非常識な人間には絶対なりたくないと、心のどこかで嫌悪していた。今も少し。だからだろうか、おばあちゃんが死んでもじめじめせずに、からりとしていられるのは。

 

医師が帰った後、お父さんは線香を立て始めた。お母さんは隣の居間で、受話器を片手に困惑した表情をしている。


「やっぱり駄目?」

 

私が訊くとお母さんは頷いた。


「ミツルおじさんのところへは、奥さんに連絡できたけど……」

 

ミツルおじさんはうちの近くで、小さなお寺の住職をしている。戒名はあるのだが、言い辛いので家族はみんな「ミツルおじさん」と呼んでいる。


「読経はミツルおじさんにあげてもらうの」


「まさか。おじいちゃんの眠っているお寺とは宗派が違うもの」


おばあちゃんの弟だから一報しただけか。お葬式には来ないかもしれない。

 

連絡のとれる他の兄弟姉妹に告げても、遠まわしに断られてしまうらしい。おばあちゃんには友達も知り合いも殆どいないから、内内で荼毘に付すことになっている。


「みんな薄情よね。おばあちゃんだって苦労されたのに」

 

受話器を置くと、お母さんはちょっとだけ目を赤くして居間の太くて丸い柱を触った。


大黒柱だ。私の身長を測った傷跡がいくつかあるが、居間の真ん中を占領しているので、最近はつくづく邪魔に思う。


「そうねえ」


ひんやりした柱をぺちぺちと叩きながら、それでもお母さんだっておばあちゃんの攻撃性に相当苦労させられたんじゃないかと思った。

 

戦争で親を失い、焼けてしまった家を一から建て直したのはおばあちゃんだったと聞く。


おばあちゃんはこの家に愛着を持っていた。おじいちゃんは婿養子としてこの家に入ったのだそうだ。まあ確かに、戦争を潜り抜け、混乱している時代に五人の弟や妹を育てるには、穏やかな性格じゃ生き延びられなかっただろう。当時のことは想像しかできないけれど。


「ねえ、お役所に死亡届出してきて」


「え、私一人で」


「そうよ。あんたついこの前お役所に行っていたから慣れているでしょ。お母さん忙しいもの。これからおじいちゃんのお葬式の時にお世話になった和尚さんをお呼びするのよ。葬儀屋さんにも連絡しなきゃいけないし」

 

お父さんは? と訊こうとしたけど駄目だ。足が悪い。やっぱり休みを取らないで会社に行っていればよかったか。


「一人で行ったら亡者に足を引っ張られない?」


「なに馬鹿なこと言っているの。亡者だなんて。仮にもあんたのおばあちゃんなのに」

 

おばあちゃんに連れて行かれるのは勘弁してほしいから言うのだ。


「だって今日、三月三日でしょ」


「それがなんだっていうの」

 

お母さんは気づいていないのだ。多分お父さんも。それとも私が気にし過ぎているだけだろうか。三という数字は昔から神聖なものとされているが、うちには縁起が悪い。

 

例えば去年の三月、お父さんが事故に遭った。以来、杖なしでは歩けなくなっている。


一昨年の三月は、お母さんが突然脳梗塞で倒れた。不幸中の幸いか、命に別条はなく後遺症も残っていない。その前の年は四月だけれど、ご近所さんが三人立て続けに亡くなった。


その前もその前も、もう私が物心ついた時からずっと、「三」の入るところには悪いことばかりが起こる。


「ああ、今日は桃の節句よね」

 

お母さんは呑気にそんなことを言っている。ご近所、父、母。次、誰かに災難が降りかかるとしたら、多分私だ。そしてそれは今日かもしれないのだ。


「帰りに流し雛していらっしゃい」


「えー、こんな日に。川に落ちたらどうしよう」


「またそんなこと言って。流しに行きたかったんじゃなかったの」


「違うってば」

 

言いたいことは喉元まで出かかっているのに、どう説得すればいいのかわからない。

 

お母さんは溜息をついた。


「流し雛はおばあちゃんから教えてもらったものでしょう。おばあちゃんが亡くなったからやらないなんて、そんな浅はかな子に育てた覚えはありませんよ。三十五歳にもなって」


「そうじゃなくて……」


「ああもう、つべこべ言っていないでさっさと行きなさい」 

 

結局私が負けて、印鑑と提出書類を持った。あと紙とハサミ。

 

やかましかったおばあちゃんのもとで育ったお父さんと私は、無口で大人しい性格だ。

 

お嫁さんであるお母さんだけが、立派に渡り合っていた気がする。お母さんはおばあちゃんに苦労させられたというよりは、鍛えられたと言ったほうが正しいかもしれない。


          2


「よくないことが続くね」

 

お母さんが倒れたとき、おばあちゃんにぼやいたことがある。


「こんな風にはならないはずだったんだがね」

 

おばあちゃんは縫い物をしながら答えた。


「はず」と確信めいたことを言うからには、なにか因果なことでもあるのかと疑問を抱いた。おばあちゃんには思い当たる節があるふうにも思えた。


けれど大人しい性格が災いしておばあちゃんをそれ以上追究できなかったので、私は今死亡届を出したあとに戸籍謄本を貰っている。


先祖供養という名目で、前に頼んでおいたのだ。実際に供養する気はない。あってもおじいちゃんのお墓参りくらいか。

 

おばあちゃんが知っていて私が知らないことを紐解くには、先祖の戸籍謄本を取得することくらいしか思いつかなかった。

 

係の人にお礼を言ってその場を離れた。よりによって今日貰う必要もないのだけれど、また出向くのも面倒くさい。

 

おばあちゃんの親の戸籍謄本。子供が多いせいか、二枚連なっている。人の邪魔にならないところで、立ったままざっと目を通した。

 

長女まつ。おばあちゃんの名前。長男昭。生きているか死んでいるかわからないのでピンとこない。次男充。これはミツルおじさんだろう。

 

あれ、次男? ミツルおじさんは三男ではなかったっけ。隣の名前に目を走らせた。


次女たけ。三女うめ。松竹梅とは縁起のいい名前だ。


 謄本の二枚目を見る。三男すみ。どう考えてもこの字はミツルとは読めな

い。


私の思い違いだったのだろうか。最後は四男てる

 

なんだか釈然としない。なんだろう。もう一度最初から見直した。


あっ、と声が出てしまって、近くにいた人がじろじろ見てきたのでそそくさと役所を出た。

 

おばあちゃんは六人兄弟だと聞かされてきたけど、謄本によれば四男三女で七人いることになる。


おばあちゃんは自分を含めずに兄弟の数をカウントしていたのだろうか。


写真を思い返した。やはり六人だったと思う。


お父さんに電話で確認してみた。波風を立たせたくないため、戸籍のことは言っていない。


けれどお父さんも、当然のようにおばあちゃんは六人兄弟だと答えた。


あと一人はどこへ行ったのだろう。おばあちゃんの兄弟をほとんど知らないので、

誰があの写真に映っていないのかもわからない。

 

すっきりしない気持ちのまま川へ向かって歩いた。


「すみません」


前方からやってきた三人組の女性が声をかけてくる。三人。このまま避けて通ろうかとも考えたが、目の前に三人も立たれると、足が自然と止まってしまう。


「この辺に新しくできたカフェがあるらしいんですけど知りませんか。探しているんですけど道に迷ってしまって」


「さあ、ちょっと……」

 

本当に知らない。三人のうちの一人が地図を見ている。


三人もいてどうして道に迷うのだろう。それでなぜ、私に聞いてくるのだろう。うなじの辺りがざわざわしている。


「そうですか。ありがとうございました」

 

訊ねてきた女性が肩を落とした。


「いえ、こちらこそお役に立てなくてすみません」

 

笑顔を作ってしまう自分が腹立たしい。三の呪いがかかったのじゃないかと思えてくるほど私には切実な問題で、内心ハラハラしているというのに。

 

三人組の女性は軽く会釈をして去っていく。なにも知らない彼女たちがちょっとだけ恨めしく感じられる。


私はまた歩き出した。不安に駆られてなんだか急ぎ足になる。難を逃れるにはどうしたらいいだろうと考えていた。

 

三が不吉なら、お隣の数字、四の世界を構築してはどうか。

 

どうやって? 

 

思考を巡らしてもいいアイディアが浮かばない。

 

とりあえず、いやとにかく、あと一人誰かに声をかけてもらいたい。そうすれば三が壊れて四になる。

 

           3



結局川原に着くまでの間、誰からも声をかけてはもらえなかった。


柴犬が飼い主に連れられて悠々と土手を歩いている。土手から見下ろしてくる柴犬と目が合うと、急に私に向かって吠えだした。


犬は四人目にカウントされないと思う。ならば飼い主はと思って見てみるが、柴犬に注意を払っている様子で、私に気づく気配はない。


憂鬱な気持ちで川辺に座り、紙とハサミを取り出す。ミツルおじさんも昔は来ていた。


流し雛の風習は、私の住んでいる地域には全くない。


かといって、うちには桃の節句に雛人形を飾る習慣もない。私がおばあちゃんに教わったのは、白い紙で形代を作って住所と名前を書き、それを草で作った舟に乗せて流すというごく単純なものだ。


これもまた、おばあちゃん流だと思う。神社などで催される流し雛は、もうちょっと格調高いものだろう。

 

近くに生えていた草をむしりとって簡単な舟を作った。春といえども、風は水の冷気を含んでとても寒い。形代を舟に乗せ、きらきらと輝いてる川面にそっと置く。誰かに声をかけられますようにと願った。舟は一直線に川下へ流れていく。

 

舟が見えなくなったあと、対岸を見つめてぼんやりとしていた。


ここが賽の河原だとしたら、向こう岸にはどんな世界が広がっているのだろう。


嫌悪しているとはいえ、孫なのだから気になる。まあどんな恐ろしいところでも、おばあちゃんなら図太く渡っていける気がする。三途の川の先に待っているのは極楽なのか地獄なのか。


「おばあちゃんが安らかに極楽へいけますように」と祈願することはできなかった。代わりに地獄へ落ちろ、とも思わない。極楽へ行ってもひとしきり楽しんだら、自ら騒ぎを起こして地獄へ落ちたがる、それがおばあちゃんだからだ。


「あんまりぼんやりしていると、亡者に足を引っ張られますよ」

 

聞き覚えのある声と台詞だ。振り返ると、法衣を身に纏ったミツルおじさんが立っていた。早速願いごとが叶った。嬉しさがこみ上げてくる。


「お寺、抜け出してきたんですか」


「この日くらいはいいでしょう」

 

おばあちゃんが亡くなったことを聞いて、ここへ来たのだろう。おじさんは寂しそうに笑った。


「流し雛は終わりましたか」


「ええ、今」


「今日はよく晴れていますから、流すのにはいい日和でしたね」 


ミツルおじさんの言葉遣いは、いつも丁寧だ。おばあちゃんの粗暴な言動を嫌っているうちに、身に着いたのだという。


「あの、亡者が足を引っ張るなんてこと、本当にあるんでしょうか」

 

自分で母親に言っておきながら訊いている矛盾を感じる。


「さっきのは冗談ですよ。昔からの迷信です。姉ならやりかねませんけどね」


「さっきまで怖かったんですけど。おじさんが声をかけてくれたので四になって安心です」


「四?」


説明すると、ははあ、とミツルおじさんは納得したように頷いた。


「人から見たらこういう考えも迷信などの類だと思うんですけど、三の入る日に加えてあのおばあちゃんに足を引っ張られたら、パワー倍増みたいな気がして。それこそ私にとっては地獄でしょう」


「そうですねえ」


あっさり肯定。


「でも、そうではないかもしれません」

 

思わず横顔を見る。私の思慮ではミツルおじさんの考えていることは測りきれない。


横顔を眺めているうちに、胸の中がもやもやしてきた。戸籍謄本を思い出してしまった。


「おじさんは、どうして次男ではなく三男ということになっているのですか」

 

迷いながらも訊ねてみる。ミツルおじさんの顔が強張った。


「私は一度もそのようなことは言っていませんよ。姉がそう主張していただけでしょう」

 

確かに、思い返してみてもおばあちゃんだけがそう言っていた気がする。でもお父さんもお母さんもミツルおじさんを三男だと思っている。

 

ミツルおじさんは私の顔をゆっくりと振り返った。


「だけど、どうして次男だと気づいたのですか」

 

虚ろな目の写真が不意に蘇った。訊ねてはいけなかったのかもしれない。


一気に不安が押し寄せてきたが、なかったことにもできない。


「両親はなにも知らないみたいなのですが」


恐る恐る一言添えて、戸籍謄本を見せる。


ミツルおじさんは戸籍謄本に目を通すと眉根を寄せて目を閉じ、しばらくなにか唱えていた。見ているこちらが痛々しくなる表情だ。


「姉は死ぬ間際、苦しみましたか」


「はい。強深瀬が見えると」 


細く長い溜息が聞こえてきた。


「ここへ来たのは、姉の思い出をあなたと楽しく語りたかっただけなのですが」

 

そうもいかない、と言いたそうだ。なにか知っているのだろう。


「ここから先の話は、住職ではなく一人の人間のお話だと思って聞いてください」


「はい」

 

姿勢を伸ばして聞く態勢を整える。


「昔、親を亡くした七人の兄弟姉妹がおりました。一番年上の姉は、戦争で焼けた家を建て直すのに必死でした。姉は他の六人の誰よりも家庭の繁栄を願っていました。これ以上の災難が起きないためにはどうすればいいか日々思案し、やがて結論を出したのです」


ミツルおじさんはおぞましいものでも見ているかのような目で続けた。


「三男、澄を人柱にしてしまえと。当時澄は四歳かそこらでした。『なぜ澄なのか』次男は訊きます。するとこんな答えが返ってきました。『さんずいの名前は水に流れるという意味で縁起が悪い。だからいっそのこと流れないように沈めてしまえ』と。本来人柱というのは城や橋など大掛かりな工事の完成を願って神へ捧げるもので、姉の理屈とは大いに異なります。しかし姉は全て我流でした。周囲の猛反対を押し切って、一人で実行してしまったのです」

 

さんずいの名前というのも迷信だ。でも、おばあちゃんならそういうことをやっていても不思議はないと、澄さんへの同情も憐れみもなく、心のどこかで冷静に納得している自分がいる。


そんな自分を内心嫌悪していた。結局のところ、おばあちゃんと私は同じ種類の人間なのかもしれない。


「じゃあ澄さんは、ずっと家の下に……」


「睡眠導入剤は簡単に手に入った時代です。澄は眠ったまま、冷たい土の中へ埋められました。その土の上に、太い柱が聳え立ちました」

 

寒気がした。邪魔に思っていた大黒柱のことだ。おばあちゃんの犯した罪の象徴ではないか。それが家を支えてきたのなら、うちにいいことなど起こるはずがない。 


「他の兄弟は誰も手を貸していません。けれど止められる者もおりませんでした。あの時の姉は狂気の最中にありました。家が完成したあと、姉の命令で記念写真を撮りましたが、あの時も、姉以外の全ての兄弟は震えておりました。あの事件がきっかけでみんな徐々に姉のもとを去って行き、次男は恐れて近くの寺に駆け込んだのです。寺の誰にも、このことは話していません。ただ自ら僧侶になり、弟を供養する道を選びたかったのです」

 

結局足を引っ張られそうになったのは、おばあちゃんではなく両親だ。


飛び火はご近所にもあった。どんな霊でも魑魅魍魎でも、おばあちゃんにとり憑くのは無理だと思う。


おばあちゃん自身のエネルギーが強すぎて、そうしたものを弾き飛ばしてしまう底力を持ち合わせていただろう。


だからおばあちゃんに直接災難は起きず、長生きもできた。あくまで私の考えで、本当のところはわからないけれど。


太陽が雲に隠れ、影が差した。


「おばあちゃんがおじさんを三男と言い張っていたのは、自分の罪を私たちに隠したかったからでしょうか」


そもそもおばあちゃんに罪の意識などあるのかどうか。


「三男を埋めて、三という字に不吉なことが起こるようになった。澄はもしかしたら、土の下に眠る自分の存在を訴えていたのかもしれません。姉がそのことに気づかないはずはない。そして 気づかぬふりもできない。死者を蘇らすことも不可能です。ならば、三男を生きていることにしてしまえば悪いことも鎮まる。多分、これが姉の考えでしょう」


「なるほど。実際に鎮まることはなかったみたいですが……」 


相変わらず、めちゃくちゃで歪んだ思考だ。なのに納得してしまう。


「罪の意識は最初こそなかったとしても歳を重ねるに連れ、芽生えていったと思いますよ。悪い事は実際には続いていただろうし、あの大黒柱と六十年以上過ごしたのですから。すごく後悔もしたでしょう。その証拠は、結構あなたの身近なところにありますよ」

 

言われて、しばらく考えてみた。なにも思い当たらない。


黙っていると、ミツルおじさんは口を開いた。


「ななみちゃん」


私の名前が証拠? それともヒント? わけがわからず顔を見つめる。ミツルおじ

さんは諭すようにもう一度私の名を呼んだ。「ななみちゃん」。


なぞなぞがすとんと解けた。


「七人兄弟であったことを、私の名前に隠したのですね」

 

ミツルおじさんは頷いた。


『ななみ』の『なな』は『七』という意味だ、たぶん。ひらがなにして、分かり難くしたのだろう。


後悔して孫の名にその証を刻んだけれど、あまり気づかれたくない、というおばあちゃんの矛盾と葛藤を感じる。


おばあちゃんの罪を背負うのはごめんだ。だんだん改名したくなってきた。


「後悔していなければ、あなたにその名前はつけなかったと思います。『強深瀬が見える』と死に際に叫んでいたのなら、ずっと澄のことで罪悪感に苛まれていたのではないかと考えられますね。それにあなたが『三』を気にする必要はありませんよ」


「なぜですか」


「思い返してみてください。これまでにあなた自身に災難が降りかかってきたことはないでしょう」


「だから、父、母ときて次が……」

 

ミツルおじさんは左右に首を振って川を指差した。


「流し雛です。あなたが今まで難を逃れていたのは、これのおかげです。澄への償いのつもりだったのか、唯一の孫を守りたかったのかはわかりませんが」

 

形代が、本当に身代わりになってくれていたのだろうか。私を守りたかったのだとしたら、おばあちゃんに連れて行かれる心配もない。


「だけどやっぱりちょっと不安です」


「ならもうひとつ。先ほど、『四』の世界を作りたいと言っていましたね」


「ええ。家族が三人になってしまったこともありますし。びくびくしてます」


は死に通じます。姉が亡くなったことで、『四』は既に構築されたのですよ」

 

パズルの最後のピースみたく、かちりと当てはまるものが私の中にあった。


おばあちゃんの思い通りの家にはならなかったけど、最後におばあちゃんは身をもって四の世界を作ってくれたのだ。


安堵の種が心の中に撒けたような気がした。あくまで種であって、まだどっしりと

した根は張れない。けれど一時的に落ち着くことはできた。


「私の寺に、澄の墓があります。小さく、お骨も入っていない形ばかりのものですが」

 

初めて知る事実だったので、そのお墓を見たことはなかった。澄さんの亡骸は、家の下で土に還っているだろうか。多分骨は残っているだろう。


「おばあちゃんのお葬式が終わったら、お参りに行きます」

 

ミツルおじさんは微笑んで、合掌した。私も真似をしてみる。


今更家を壊すことも、掘り返すことも、おばあちゃんを責めることもできない。


元々秘密を紐解いてどうこうしようという気持ちはなかったが、両親に言うのは避けよう。


悲惨な思いでこれから先の生活を過ごすことになる。私とミツルおじさんの間の秘密だ。胸の奥にしまっておくしかない。


「おばあちゃんは、今頃どこにいると思いますか」


「さあ、それは正直、私にもわかりません。無事対岸に着いているといいのですが」

 

ミツルおじさんはさっき私がそうしていたのと同じように向こう岸を見遣った。

 

自分の罪で最後まで他の兄弟姉妹に会えなかったことが、おばあちゃんの未練だったのかもしれない。あの写真は一緒に納棺しよう。


突然、鞄から携帯の着信音が鳴り響いた。お母さんからだろう。私は立ち上がり、ミツルおじさんに挨拶をした。


ショックはあるけれど、「三」の謎は解決したので頭はすっきりしている。


         4


夕方の陽ざしに変わりつつあった。

 

これから手伝いで忙しくなりそうだ。澄さんの眠る家へ帰る。家門を潜り、玄関のドアを開けようとすると、和尚さんがお母さんと一緒に出てきた。


お父さんとお母さんは揃って深々と頭を下げている。もう、打ち合わせは終わってしまったのだろう。

 

これから短い期間、お世話になるのだ。私も端に寄って粛々と頭を下げた。


他人だからか、ミツルおじさんと違って緊張する。


「おや、あなた」

 

低い声が頭上から降り注いできて、顔をあげた。和尚さんはしばらく不思議そうな顔で私を見つめていた。なんだろう。目の焦点が合っていない。


急にまた、うなじの辺りがざわざわ言い出した。

 

三月三日に道を訊ねてきた三人。気にする必要はない。流し雛で穢れを払っていたのだし、「四」の世界は構築された。悪いことなどなにもないはず。

 

両手を組んで言い聞かせるけど、嫌な汗がにじみ出てくる。

 

和尚さんはしっかりと私の目をとらえると、にっこりと笑った。


「強力な加護がありますね。あなたのおばあさまは、既にあなたの後ろにいらっしゃる」

 

思わず振り返った。もちろん私にはなにも見えない。


「感謝するといいですよ」

 

和尚さんはそう言って去っていく。


「あらまあ、おばあちゃんたら、ななみを守護してくれるのね」 

 

近くで聞いていたお母さんの、実に能天気で嬉しそうな声が聞こえてくる。


もう一度振り返った。三途の川を渡った先はあの世じゃなくて、よりにもよって私の背後? 

 

北風が吹きぬけていく。背筋がゾクリとした。

                   (了)


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流し雛 明(めい) @uminosora

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