第16話 踊り子、海を越えて
特急「踊り子」が品川を出るころ、
車内のざわめきがゆっくりと落ち着いていった。
観光客の笑い声、紙袋の音、駅弁の香り。
そのすべてが、日常と非日常の境界線をぼんやりと揺らしている。
「次は大船です」
車内アナウンスが流れ、真司は窓の外に視線を向けた。
遠くの空がひらけ、冬の陽射しが雲の切れ間から差し込んでいる。
うっすらと青く光る水平線が見えてきた。
「あっ、見えてきましたね」
真由の声が少し弾んだ。
指先が、窓の外の海を追いかけている。
その横顔を、真司はただ見つめていた。
まるで、その小さな仕草ひとつひとつが、
心を動かすトレーニングの教材みたいに見えた。
「……なにか考えてます?」
「いえ。なんか、不思議な気分で」
「それ、すごく大事です」
真由はリュックから一冊のノートを取り出した。
クラフト紙の表紙には手書きでこう記されていた。
《行動観察フィールドノート No.47》
「これ、仕事の記録ですか?」
「はい。私の“心の実験ノート”でもあります」
真司が首を傾げると、真由は微笑んでページを開いた。
「相手の表情とか、声のトーン、話す間。
それと、自分の感情の変化も全部書きます。
“何を感じたか”より、“どんな変化があったか”を見るんです」
「まるで心理観察の現場記録みたいですね」
「そうです。
恋愛って、感情の変化の中に“行動の癖”が隠れているので」
「癖?」
「たとえば――緊張すると相手の顔を見られなくなるとか、
優しさを示すときに笑顔を作りすぎるとか。
自分では気づかないけど、相手は感じ取っているものです」
真司は一瞬、黙り込んだ。
「……俺、そういう癖だらけかもしれないな」
「だからこその実習です」
彼女はノートにペンを走らせながら続けた。
「いまの真司さん、海を見た瞬間に呼吸が変わりました。
小さく吸って、少しだけ長く吐いた。
リラックスのサインです」
「そんなの、わかるんですか」
「ええ。職業病です」
二人のあいだに笑いがこぼれた。
その笑いが消えたあと、
列車のリズムだけが静かに響いていた。
「記録は、“見張る”ためじゃありません。
一緒に心の地図を描くためです」
真由が閉じたノートの上に、
窓からの光が静かに落ちた。
その光は、まるで
二人をまだ見ぬ目的地へ導く“道標”のようだった。
(つづく)
📘次回(第17話)予告
「熱海の街へ」
列車を降りると、冬の潮風が二人を包んだ。
昼食は駅ビルの寿司屋「伊豆太郎」。
観光客の喧騒の中で、真司の胸に芽生えたのは――“仕事”では説明できない感情だった。
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