第15話 キャンセルの電話

「……すみません。やっぱり、今回は行けそうにありません。」


電話の向こうの声は、弱々しく震えていた。

《ハート・ラボ》が企画した「恋愛トレーニング・熱海実習」に参加予定だったクライアント――川瀬海斗だ。


二十二歳。

SNS恋愛の失敗から、人と向き合うことに怖さを覚えていた青年。

それでも勇気を出して申し込んだプログラムだった。


「どうしました? 体調がすぐれないとか?」

真司は静かな声で問いかけた。


「体調というより……自信がなくて。

 担当のトレーナーさんの写真を見たんですけど……

 正直、すごく綺麗で、近づくことすら怖くなってしまって。」


その言葉に、真司は小さく息をのんだ。


写真の中の白石真由――

淡いベージュのコート、落ち着いた笑み。

目尻にかすかな知性の光をたたえていて、

見る者の心に“距離の美”を感じさせる。


――確かに、彼女は誰にとっても「高嶺の花」だった。


「無理をする必要はありません。

 あなたのタイミングで、また挑戦すればいいですよ。」

真司はそう伝え、ゆっくりと通話を終えた。


受話器を置くと、部屋の空気が少しだけ重くなった。


「先生、せっかくのプランが台無しですね。」

背後から真由の声がした。


「まあ、こういうこともあるさ。」

「でも、日帰り温泉も電車もキャンセルできませんよ?」

「……そうだな。」


少しの沈黙。

真司は苦笑し、ぼそりと呟いた。


「……もったいないな。」

「え?」

「白石とデートすっぽかすなんて、男として損してる。」


真由は一瞬きょとんとし、次の瞬間、ふっと笑った。

「先生、そういうセリフ、クライアントに言っちゃダメですよ。」

「わかってるよ。」


二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。

その笑いが静まったあと、

真由がふと思いついたように言った。


「じゃあ――私たちで行きませんか?」

「……え?」

「研修として。“模擬実習”です。

 現場でどんな雰囲気になるか、確かめておきたいんです。」


真司は腕を組み、しばらく考えた。

本来はクライアントのためのプログラム。

だが、研修として行くなら、禁止事項にも触れない。

そして何より、真由の目が真剣だった。


「……わかった。行こう。」

「本当ですか?」

「どうせ誰も使わないなら、現場感をつかむいい機会だ。」


真由は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、“恋愛支援者の恋愛実習”ですね。」

「やめてくれ。ややこしくなる。」


ふたりの笑いが重なり、

静かな午後の光が《ハート・ラボ》のデスクを照らしていた。


――人の恋を支援する仕事をしていても、

 恋そのものを“体験する”ことからは、ずっと遠ざかっていたのかもしれない。


デスクの上には、

熱海行きの切符と、真由が手配した日帰り温泉のチケットが並んでいた。


誰もいない椅子の分だけ、

なぜか空気が少しだけ軽くなっていた。


(つづく)


📘次回(第16話)予告

「踊り子、海を越えて」

冬の朝、特急の車窓から海が見える。

“模擬実習”のはずが、心の距離が少しずつ揺らいでいく――

恋愛支援の現場が、やがて恋そのものの舞台に変わっていく。

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