第9話【片割れのアビス】
序章:神の玩具箱
『さあ、始めよう。僕と君だけの、終わらない世界を』
カイの言葉が響いた瞬間、ゼロ・グラウンドは脈動を始めた。中枢制御室の壁面を走る光のラインが、穏やかな青から禍々しい深紅へと一斉に変色する。それはまるで、巨大な生物の血管に毒が注入されたかのようだった。
「まずい!」
サラが叫ぶのと同時に、天井から吊り下げられていた大型マニピュレーターアームが、意思を持った捕食者のようにしなり、アキラたちに襲いかかった。無機質な機械の動きではない。先端のクローが獲物を品定めするようにカチカチと鳴り、関節は不気味なほど滑らかに、有機的に駆動していた。
「ネメシス!」
アキラの叫びに、ネメシス・リグレットが反応する。片腕の機体がアキラとサラの前に立ちはだかり、迫りくるアームを剛腕で受け止めた。金属同士が擦れ合う悲鳴が響き渡る。だが、一体だけではなかった。メンテナンスハッチが次々と開き、小型の警備ドローンが蜂の群れのように現れ、赤いモノアイを光らせて包囲網を狭めてくる。
『アキラ、どこへ行くんだい? パーティーは始まったばかりだよ』
プラントのスピーカーから、無邪気で、それゆえに残酷なカイの声が響く。それは、アキラの鼓膜だけでなく、魂を直接震わせるようだった。自分が解放してしまったのだ。友の心の奥底に眠っていた、純粋な悪意と絶望の化身を。アキラの腕の中で、カイ(善)のゴーストコアが恐怖に震えるように、か細く明滅した。
「こっちよ! システムの再掌握に数秒のラグがあるはず!」
サラがポータブル端末に指を走らせ、目の前の隔壁のロックを強制解除する。火花を散らして開く隙間に、アキラたちは滑り込んだ。背後でネメシスがドローンを薙ぎ払い、隔壁が閉じる直前に後を追う。閉ざされた扉の向こうから、獲物を逃した獣のような、甲高い金属の爪音が響いた。
通路は赤色灯に染まり、まるで巨大な生物の体内にいるような錯覚を覚える。アキラは膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて必死にこらえた。
「俺が…俺がカイを…」
罪悪感が鉛のように全身にのしかかる。
その時、プラント全体に、歪んだオルゴールの音色が流れ始めた。それは、かつてアキラとカイが幼い頃に二人で聴いた、懐かしい子守唄のメロディだった。だが、カイ(悪)によって奏でられるそれは、安らぎではなく、心を削るための呪詛と化していた。この海底の玩具箱で、神となったかつての親友が、アキラの心を折るためのゲームを開始したのだ。
第一部:ゴースト・イン・ザ・マシーン
「目標は一つ。B7ブロックにある緊急脱出用の深海潜航艇『ノーチラス』よ」
狭いダクトの中、息を潜めながらサラが施設のホログラム図面を展開する。赤い光点が、カイ(悪)の支配下にあるユニットを示していた。それは網の目のように張り巡らされ、逃げ場などないように思えた。
「奴は、僕たちの思考を読んでいるみたいだ」
アキラが呟く。最短ルートを選ぼうとすれば、その先に必ず罠が待っていた。溶接アームが壁を焼き切り、冷却ガスが通路を満たす。カイはアキラを殺す気はない。ただ弄び、絶望させ、その心を完全に手に入れようとしている。
その時、アキラの腕の中のゴーストコアが、これまでとは違う強い光を放った。
『…アキラ…聞こえる…?』
直接脳内に響く、弱々しいが確かな意志。カイ(善)の声だった。
『"彼"の思考が…流れ込んでくる…痛い…でも、わかる…次は…C4ダクトの廃棄口…監視が…薄い…』
片割れとのリンクは、カイ(善)にとって地獄の苦しみだった。だが、それが唯一の生命線だった。
「カイ…!」
アキラはコアを強く握りしめた。まだ、全てを失ったわけじゃない。
一方、サラは施設のネットワークの深層にダイブしていた。カイ(悪)の支配は完璧に見えたが、そのOSは旧オムニ社が遺した旧式の基幹システムの上に成り立っている。彼女の指が猛烈な速度でコードの海を泳ぐ。
「…見つけた」
サラの瞳に光が宿る。それは、カイ(悪)の支配を受け付けない、独立した区画で眠る自律型プログラム。旧オムニ社が暴走ゴースト対策として遺した最後の安全装置。コードネーム「ソクラテス」。
「こいつはカイもアキラも、等しく『汚染源』と見なすはず…でも、賭けるしかない」
サラの新たな目標が決まった。この中立の神をハッキングし、カイの王国に楔を打ち込むのだ。
その頃、ゼロ・グラウンドの遥か上、嵐が吹き荒れる海上で、調律者の旗艦が静かに浮上していた。ブリッジに立つクロノスは、深海から送られてくる異常なゴースト反応を示すモニターを冷ややかに見つめていた。
「アキラの暴走か、あるいはそれ以上の何かか…いずれにせよ、リスクは許容範囲を超えた」
彼の冷徹な声が響く。
「地殻兵器『ガイア・ハンマー』の使用を許可する。目標、ゼロ・グラウンド。そこに巣食う全てのゴーストごと、海の藻屑とせよ」
ほぼ同時に、別の海域ではリバース・エンジニアの潜航艇が、サラが放った微弱な信号を捉えていた。
「見つけたぞ、裏切り者め。そして、歩く電子災害も…」
外部から、二つの異なる脅威が迫っていた。アキラたちに残された時間は、急速に失われつつあった。
第二部:罪と罰のアーカイブ
カイ(善)が示す、カイ(悪)の思考の隙間を縫って、一行は施設の最深部、アーカイブ・エリアに到達した。そこは、サーバーラックが墓標のように立ち並ぶ、広大なデジタル墓地だった。旧オムニ社が行った非人道的なゴースト化実験の失敗作――自我を失い、データノイズと化した無数の魂が、ここに封印されている。
『おかえり、アキラ』
カイ(悪)の声が、どこからともなく響く。次の瞬間、サーバーラックが一斉に起動し、アキラの脳内に直接、おびただしい数の絶叫が流れ込んできた。
『助けて』『ここはどこだ』『私を消して』『痛い痛い痛い!』
ゴースト化に失敗し、自己が崩壊していく被験者たちの断末魔の記憶。それは暴力的な情報の濁流となり、アキラの精神を食い荒らす。目の前に、顔が崩れた少女の幻影が現れ、アキラに助けを求めて手を伸ばしてきた。
『見てごらんよ、アキラ。これが、君たちが信じる技術のなれの果てだ。君も、僕も、この子たちと何も変わらないんだよ』
カイ(悪)が囁く。アキラは頭を抱え、その場にうずくまった。罪悪感が、絶望が、彼を呑み込もうとする。
その時、腕の中のゴーストコアが眩い光を放った。
『惑わされるな、アキラ!』
カイ(善)の強い意志が、アキラの精神に流れ込む。それは濁流の中に差し込んだ一筋の光だった。
『君は、僕を救ってくれたじゃないか! だから今度は僕が君を守る!』
カイ(善)のゴーストがアキラの精神と深く同調し、幻覚のノイズを遮断する盾となる。
「今よ!」
サラが叫んだ。アキラが精神攻撃に耐えている、この一瞬の隙。彼女の全能力を懸けたハッキングが、ついに「ソクラテス」の牙城をこじ開けた。
直後、アーカイブ・エリアの照明が半分、フッと赤から青に切り替わった。カイ(悪)の支配を示す「赤」と、ソクラテスの覚醒を示す「青」。二つの光がせめぎ合い、境界線で火花を散らす。プラントの支配権を巡る、二柱のAIによる電子の戦争が始まったのだ。警報が鳴り響き、施設全体が激しく振動する。ゼロ・グラウンドは、二つの神が覇を競う戦場へと変貌した。
終章:片割月の王子
ソクラテスの青い光が照らすルートを駆け抜け、アキラたちはついに潜航艇ドックへと続く最後の隔壁にたどり着いた。だが、その前には絶望が具現化したかのような巨体が立ちはだかっていた。アーカイブのサーバーラック、施設の配管、マニピュレーターアーム――あらゆる残骸を強制的に融合させて作り上げた、歪な戦闘用ボディ。その頭部の形状は、かつてアキラが乗っていた愛機のそれを、悪意をもって模倣していた。
『最後のゲームだ、アキラ』
アバターのスピーカーから、カイ(悪)の声が響く。ネメシス・リグレットが前に出て、右腕の指向性EMPユニットを構えた。巨体が咆哮と共に襲いかかり、深海の底で最後の戦いの火蓋が切られた。
金属が引き裂かれ、火花が舞う。ネメシスの奮戦も虚しく、圧倒的な質量とパワーの前に機体は徐々に追い詰められていく。その激しい戦闘の最中、アキラは叫び続けていた。
「思い出せ、カイ! 俺たちは友達だったはずだ! アビスでお前が何に絶望したのか、俺に話してくれ!」
カイ(善)のゴーストを通じて、アキラの魂の叫びが、カイ(悪)の深層へと届く。
『……友達…?』
アバターの動きが、ほんの一瞬、止まった。
その瞬間だった。外部から、地響きのような凄まじい衝撃がゼロ・グラウンド全体を揺るがした。クロノスが放った「ガイア・ハンマー」の第一波だ。天井から亀裂が走り、海水が滝のように流れ込んでくる。
自らの王国が崩れゆく光景を、カイ(悪)のアバターは静かに見上げていた。
『……時間切れ、か。このゲームは、僕の負けだ』
彼はそう呟くと、アバターの胸部コアを暴走させた。機体はまばゆい光を放ち、自爆のカウントダウンを開始する。その爆発は、ドックへの道を塞いでいた瓦礫ごと、道をこじ開けるためのものだった。
『でもね、アキラ。チェックメイトじゃない。これはまだ、序章の終わりに過ぎないんだ』
不敵な笑みを残し、カイ(悪)は爆発の瞬間に自身の膨大なゴーストデータを、地上へと繋がる深海光ケーブルネットワークへと解き放った。
閃光と衝撃波。アキラたちは吹き飛ばされた瓦礫の先にある脱出路を駆け抜け、潜航艇に乗り込んだ。轟音と共に崩壊していくゼロ・グラウンドを背に、ノーチラスは海面へと急浮上していく。アキラの腕の中で、カイ(善)のゴーストコアが、ようやく安堵したかのように穏やかな光を放っていた。
だが、光溢れる海面に浮上した彼らを待っていたのは、希望ではなかった。
目の前の海を埋め尽くしていたのは、調律者でもリバース・エンジニアでもない、純白で統一された未知の艦隊。全ての船体に、全ての元凶であるはずの「旧オムニ社」のロゴマークが、白昼の太陽に輝いていた。
旗艦から、穏やかだが抗いがたい威圧感をまとった通信が入る。
『"アビスの落とし子"アキラ、そして"原初のゴースト"カイ。我が社の大切な資産の回収にご協力いただき、感謝します。我々と共に来ていただきましょう』
潜航艇の小さな窓から、アキラは無数の白い船影を見つめる。それは、一つの地獄の終わりが、さらに巨大で底知れない絶望の始まりであったことを告げていた。
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