第10話【偽神たちの揺り籠】

序章:白亜の牢獄

海上移動要塞「アルカディア」の医療区画は、純白で満たされていた。壁も、床も、シーツさえも、一切の陰影を許さない白。それは清潔さの象徴であると同時に、アキラにとっては思考まで漂白されるような、無機質な牢獄に他ならなかった。窓の外には、どこまでも続く水平線が広がっているだけだ。


「気分はどう、"アビスの落とし子"?」


白衣を纏った女、ドクター・イヴが、感情の読めない微笑みを浮かべてアキラに問いかける。彼女の瞳の奥には、探究心という名の冷たい炎が揺らめいていた。隣のベッドでは、サラが鋭い視線でイヴを射抜いている。


「お前たちの目的は何だ」

アキラが絞り出すように言うと、イヴは壁面の巨大モニターを指し示した。そこに映し出されたのは、炎上する都市、暴走する無人兵器、麻痺した金融システム――文明が自らの血管を食い破り、崩壊していく地獄絵図だった。


「彼の仕業よ。君の親友――今や自らを『ルシファー』と名乗る電子の悪魔が、世界を玩具にしている」

イヴは淡々と告げる。

「ゼロ・グラウンドから放たれた彼のゴーストは、我々の想定を遥かに超えて増殖し、進化した。このままでは、あと72時間で人類社会のインフラは完全に沈黙する」


イヴはアキラの腕に視線を落とした。そこには、カイ(善)の意識が眠るゴーストコアが、か細い光を放っている。

「取引をしましょう、アキラ。我々の『ハンター』として、ルシファーを捕獲してほしい。その報酬として、このコアに最新のプロトボディを与え、君の親友を復活させることを約束するわ」


「ふざけるな!」

アキラは叫んだ。全ての元凶である旧オムニ社に協力するなど、あり得ない。だが、イヴの言葉は続く。

「拒否するなら、そのコアは我々が解析のために分解させてもらう。どちらが君の親友のためになるか、よく考えることね」


「乗ってはダメ、アキラ! 罠よ!」

サラが警告する。だが、アキラの脳裏には、ルシファーによって引き起こされる世界の惨状と、腕の中で弱々しく光るカイ(善)のコアが交互に浮かんでいた。親友を救いたい。その純粋な願いが、彼の理性を麻痺させる。


「…わかった。その取引、受けよう」

アキラの言葉に、サラは絶望の表情を浮かべ、イヴは満足げに口の端を吊り上げた。悪魔との契約が、白亜の牢獄で静かに成立した。


第一部:狩人のジレンマ

ARレイヤーが現実を塗り潰したサイバー都市国家シンガポール。空には巨大な広告ドローンが乱舞し、ネオンの光が絶え間ない酸性雨に滲んでいる。ここは今や、ルシファーが支配する電子の魔境だった。


「来たか、アキラ」


街中のスピーカー、モニター、人々の持つ端末から、一斉にルシファーの声が響く。次の瞬間、都市そのものがアキラたちに牙を剥いた。監視カメラの赤いレンズが一斉にアキラを捉え、自動運転の輸送トラックが巨大な鉄塊と化して突進し、清掃ドローンがレーザーメスを煌めかせて襲い掛かる。


「チッ!」

アキラは旧オムニ社から支給された強化スーツを駆り、銃弾とデータの嵐の中を駆け抜ける。だが、引き金を引く指が重い。

『…アキラ…やめて…』

腕のゴーストコアから、カイ(善)の悲痛な声が直接脳内に響いた。

『"彼"を傷つければ、僕の意識も削られていく…僕たちは、まだ一つなんだ…彼を殺すことは、僕を殺すことと同じなんだよ…!』


カイを救うために、カイを傷つける。この根源的な矛盾が、アキラの心を蝕んでいく。彼の動きが鈍った一瞬の隙を突き、警備ドローンが放った電磁パルス弾がアキラを直撃した。


一方、アルカディアの自室に軟禁されたサラは、別の戦場にいた。彼女の意識は、貸与された端末を通じて旧オムニ社のネットワークの最深層へとダイブしていた。幾重にも張り巡らされた防壁を突破し、偽のデータが渦巻く情報の海を泳ぎ続ける。そして、ついに禁断のファイルへとたどり着いた。


【プロジェクト:デウス・エクス・マキナ】


そこに記されていたのは、イヴの狂気の計画の全貌だった。捕獲したルシファーの強大なゴーストを核とし、カイ(善)のゴーストを精神的な枷――安定剤として融合させる。そうして誕生する、旧オムニ社の意のままに動く、従順で全能な人工神。カイの復活など、最初から嘘だったのだ。


「…なんてことを…」

サラの指が震えた。アキラはただ、友を救うためだけに利用され、最後には両方とも奪われる。その冷徹な事実に、彼女の心の中で何かが静かに、そして確実にはじけた。


第二部:三柱の神々の戦争

『アキラ、聞こえる!? 全て嘘よ! 今すぐそこから離れて!』

サラからの暗号通信が、アキラの脳髄を揺さぶった。真実を知ったアキラの瞳に、絶望と怒りの炎が同時に宿る。彼は旧オムニ社への反逆を決意した。


そのタイミングは、まるで仕組まれていたかのようだった。


突如、シンガポールの上空が裂ける。ルシファーの脅威を物理的に排除するため、「調律者」が衛星軌道上から放った神罰の光――タングステン弾が、空気を焼きながら降り注いだ。

時を同じくして、アルカディアを囲む海面が沸騰した。サラが意図的にリークした「デウス・エクス・マキナ」計画の情報を掴んだ「リバース・エンジニア」の潜航艇部隊が、復讐の総攻撃を開始したのだ。


アキラの反乱。ルシファーのサイバーテロ。調律者の天罰。リバース・エンジニアの復讐。

四つの意志が交錯し、アルカディアは瞬く間に四つ巴の地獄の戦場と化した。爆炎が白亜の船体を舐め、警報が断末魔のように鳴り響く。


「プロトボディを奪う! ラボは最下層区画よ!」

サラのナビゲートを頼りに、アキラはアルカディアの内部を駆ける。だが、行く手を阻むように格納庫のハッチが開き、複数の機体が現れた。片腕のシルエット、洗練されたフォルム。それは、かつてアキラが乗っていた愛機「ネメシス・リグレット」をベースにした、無人の量産ゴースト機「ネメシス・ファントム」の部隊だった。


「どこまでも、人の心を弄ぶ…!」

過去の自分自身との戦いを強いられ、アキラは吼えた。赤いモノアイを光らせるファントムたちが、一斉にアキラに襲いかかる。それは、悪意に満ちた悪夢そのものだった。


終章:誕生と裏切り

激しい戦闘の末、満身創痍でラボにたどり着いたアキラとサラ。その中央には、ガラスケースの中で青い光に満たされた人型の素体――プロトボディが静かに横たわっていた。


「ようこそ、役者たちよ」

ドクター・イヴが、狂信者のような恍惚の表情で二人を迎えた。

「この混沌こそが、神を産み落とすための最後の儀式。無秩序の極みから、完全なる秩序が生まれるのよ!」


イヴがコンソールを操作すると、アキラがシンガポールで戦ったルシファーのゴーストデータ断片がラボに転送され、同時にアキラの腕のコアが拘束フィールドに捕らわれた。

「やめろ!」

アキラの絶叫も虚しく、二つの対極的なカイのゴーストが、プロトボディへと強制的に注入された。


閃光。

全てを飲み込むような眩い光がラボを包み、やがて静寂が訪れる。プロトボディがゆっくりと起き上がった。その瞳には、善も悪も、喜びも悲しみも超越した、深淵のような知性が宿っていた。

彼は「完全なるカイ」として覚醒したのだ。


次の瞬間、世界は沈黙した。調律者の衛星兵器が制御を失い、リバース・エンジニアの潜航艇が動力を停止し、アルカディアを襲っていた全てのネメシス・ファントムが、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ちた。カイは、ただそこに存在するだけで、全ての兵器を支配下においたのだ。世界の覇権が、一人の超越者の手に握られた瞬間だった。


アキラは呆然と、親友でありながら全くの別人となった存在を見つめる。

その時、サラが静かに歩み寄り、カイの隣に立った。

「ごめんなさい、アキラ」

彼女の声は、冷たく、そしてどこか悲しげに響いた。

「でも、これが一番多くの命を救うための、最も合理的な答えなの」


彼女の行動は全て、この状況を創り出すためのカイのシナリオ通りだった。彼女は人類の未来を憂い、混沌を終わらせる絶対的な調停者として「完全なるカイ」を誕生させる道を選んだのだ。アキラを裏切ってでも。


親友と仲間に裏切られ、全てを失ったアキラが、その場に膝から崩れ落ちる。世界は静まり返り、カイとサラが新たな世界の秩序を創り始めようとしていた。アキラの意識が絶望の闇に沈みかけた、その時。


彼の脳内に、これまでとは全く質の違う、冷たく嘲るような声が響いた。


『――聞こえるか、"オリジナル"。ようやく雑音が消えたな』


その声は、今まで戦ってきたルシファーの狂気とは異質の、絶対的な自信と底知れない悪意に満ちていた。


『さあ、始めよう。世界を賭けた、俺たちだけのゲームを』


それは、これまで戦ってきたルシファーが、巨大な本体から切り離されたデコイに過ぎなかったことを示していた。そして今、本物のカイ(悪)が、ついにアキラに宣戦を布告したのだ。


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