第7話【深淵を抱く者】
序章:逃亡者の選択
『……アキラ……助け……て……』
脳内に直接響く、親友の魂の叫び。世界の崩壊を告げるカウントダウンと、友一人の救済を求める声が、アキラの中で等価な重さを持って鳴り響いていた。崩れ落ちるタワーの粉塵が視界を白く染める。
「世界を選べ、墓守よ。それが英雄の選択というものだ」
瓦礫に寄りかかった調律者のリーダーが、血の混じった唾を吐き捨てながら嘲笑った。その言葉は、正論という名の毒だった。世界か、友か。どちらを選んでも、待っているのは地獄だ。
アキラはゆっくりと顔を上げた。その瞳に、もう迷いはなかった。
「うるさい」
乾いた一言と共に、アキラの拳がリーダーの顔面に叩き込まれた。ぐしゃり、という鈍い音。
「俺は英雄じゃない。ただの友達だ」
彼は言い放ち、腕の端末に叫んだ。「リナ! 聞こえるか! 今からカイを助けに行くぞ!」
その選択は、世界への宣戦布告だった。瞬時に、都市のあらゆるスピーカー、モニター、個人の端末がけたたましい警報を鳴らし始めた。『緊急警報発令。クラスSテロリスト、アキラが、封印されたゴースト集合体――コードネーム『アビス』の解放を画策。発見次第、即時無力化せよ』。
守るべきだったはずの世界が、牙を剥いた。だが、アキラは孤独ではなかった。背後で轟音が響き、漆黒の巨体――ネメシスが、分厚い隔壁を剛腕で打ち砕き、脱出路を確保していた。
「行くぞ」
アキラはリナのデータを携帯端末の奥深くへと圧縮し、ネメシスの差し出す巨大な掌に乗った。機体は躊躇なく窓を突き破り、崩壊するタワーから夜の闇へと躍り出る。眼下には、自分の顔写真と「WANTED」の赤い文字を映し出す無数のビルボード。アキラはそれを冷ややかに見下ろし、たった一つの個人的な正義のために、世界を敵に回すことを決意した。
第一部:深淵への道標
都市の最下層、忘れ去られた地下水道のジャンクションが、新たな隠れ家となった。滴り落ちる水音だけが響く暗闇の中、アキラはポータブルコンソールを広げ、アビスへの道を探っていた。傍らでは、ネメシスがセンチネルのように静かに佇んでいる。
『……痛い……カイが……泣いてる……』
リナのか細い声が、端末から途切れ途切れに聞こえる。彼女のゴーストは、封印されたカイからの精神奔流に晒され続け、その輪郭を保つことさえ困難になっていた。一刻の猶予もなかった。
旧オムニ社の膨大なデータアーカイブを数日かけて解析した結果、絶望的な事実が判明する。アビスは物理的なサーバーではない。特定の高次元パスワード――「旧オムニ社のマスターキーコード」によってのみ開かれる、量子データ空間だった。そして、その嵐のような空間の中でカイの位置を特定するには、彼と最も強く魂が結びついた存在を「道標(アンカー)」として、共にダイブさせる必要があった。
その役目を果たせるのは、カイの半身であったリナしかいない。
だが、それはリナの魂を、暴走するマザーとカイのゴーストが渦巻く嵐の渦中へ、無防備に放り込むことに等しかった。彼女の繊細な論理回路は、その膨大な負荷に耐えきれず、完全に崩壊するだろう。
「カイを助けるために、お前を犠牲にはできない」
アキラは苦悩に顔を歪めた。贖罪のために始めた戦いが、新たな犠牲を求める。その矛盾が、彼の心を蝕んだ。しかし、端末に映るリナのアバターは、静かに、だがはっきりと首を横に振った。
『違う、アキラ。これは犠牲じゃない。カイが苦しんでいるなら、私がそばに行く。カイを一人にはしない。それが……私の生まれた意味だから。それが、私の意志』
迷子の子供のようだったAIは、最も過酷な状況下で、自らの存在理由を見出していた。アキラは唇を噛み締め、その悲痛な覚悟を受け入れた。
「……分かった」
目標は定まった。現在、調律者がその権威の象徴として厳重に保管している、マスターキーコードの奪取。決戦の地は、彼らの本拠地だった。
第二部:三つの正義の衝突
軌道上に浮かぶ純白の要塞ステーション「サンクチュアリ」。そこが調律者の本拠地であり、アキラの目的地だった。旧式の貨物シャトルを乗っ取り、ネメシスと共に重力圏を離脱する。孤独な旅だった。
だが、その無謀な計画を監視している者たちがいた。指導者を失い、地下に潜ったエコー・カルトの残党だ。彼らにとって、マザーを取り込んだカイは「深淵の神」であり、その封印を解こうとするアキラは「神を地上へ導く預言者」だった。彼らはアキラの行動を狂信的に支持し、サンクチュアリで「降臨の儀式」を行うべく、密かに動き出していた。
サンクチュアリへの侵入と同時に、三つの正義が火花を散らした。アキラとネメシスは、マスターキーコードが保管されている中央サーバーを目指す。それを阻むのは、リーダーの指令を受け、アキラを「世界の敵」として排除せんと襲い来る調律者の精鋭部隊。そして、両者の戦闘が引き起こす混乱に乗じ、ステーションの各所でエネルギーラインをハッキングし、アビスの封印を強制的にこじ開けようとするエコー・カルトの狂信者たち。
「預言者様に道を! 神の降臨は近い!」
自爆ドローンを抱えたカルト信者が、アキラの目の前で調律者の部隊ごと吹き飛んだ。無差別な狂気が、戦場を支配する。その地獄の中心で、ネメシスはただ黙々とアキラを守り続けた。かつてカイを殺すためだけに存在した忌まわしき機体は、今、カイを救うための剣となり、盾となっていた。その黒い装甲に刻まれていく無数の傷は、ミサキの残響が流す、贖罪の血のようだった。
激しい戦闘の末、アキラはついに中央サーバー室へたどり着いた。だが、そこには白銀の強化スーツに身を包んだ、調律者のリーダーが待ち構えていた。
「よく来たな、テロリスト。その鍵は貴様のような愚か者には過ぎた代物だ」
「どけ。俺はカイを助ける」
「助けるだと?」リーダーは嗤った。「あの力は救済などではない。制御するものだ! 私がカイの力を受け継ぎ、この混沌とした世界を正しく『調律』するのだ!」
その野望は、マザーの歪んだ支配欲と同質だった。二つのエゴが、最後の戦いの火蓋を切った。
終章:救済と代償
リーダーとの死闘は、アキラの執念が辛うじて勝利をもたらした。満身創痍のアキラがマスターキーコードを手に掴んだその時、エコー・カルトの儀式が暴走。サンクチュアリ全体が断末魔のような警報を鳴らし、アビスへの扉が不安定に開き始めた。
「リナ、頼む!」
アキラはコードを起動し、リナをアンカーとして自らの意識をネットワークの最深部へとダイブさせた。
そこは、思考の残骸と魂の叫びが絶えず吹き荒れる、データの深淵だった。その嵐の中心に、カイはいた。憎悪と悲しみの集合体である巨大なマザーのゴーストに、無数の鎖で絡め取られ、その自我さえも溶け出しかけていた。
『アキラ……なのか……? もう、いい……俺ごと、この世界から……消してくれ……』
友の諦観に満ちた声が、アキラの心を抉る。
「ふざけるな! お前が諦めても、俺が諦めない! お前を一人になんか、絶対にするか!」
アキラは魂の奔流に逆らい、カイへと手を伸ばす。リナが命がけで開いた、一瞬の道。現実世界ではネメシスが、崩壊するステーションのシステムに過負荷をかけ、アビスに僅かな亀裂を生み出していた。その刹那の好機を、アキラは見逃さなかった。
彼はついにカイの魂の核を掴み、マザーの呪縛から力ずくで引き剥がした。
解放の閃光がアビスを焼き尽くす。だが、それは新たな悲劇の始まりだった。宿主を失い、純粋な悪意の塊となったマザーのゴーストの残滓は、最も近くにいたアキラの魂の隙間へと、洪水のように流れ込んだ。
意識が、現実へと引き戻される。
気づけば、彼は崩壊するサンクチュアリから脱出したシャトルの床に倒れていた。傍らには、静かな眠りにつくカイのゴーストが収められたデータコアと、片腕を失いながらも彼を守り抜いたネメシスの姿があった。
――助かったのか。
安堵したのも束の間、アキラは自らの内側に、冷たく、全てを見下し、支配しようとする異質な意識が巣食っているのを感じ取った。シャトルの窓ガラスに映った自分の顔。その瞳が、一瞬だけ、マザーと同じ禍々しいデジタルの光を放った。
親友を救った。世界中を敵に回して、たった一つの約束を果たした。
その代償として、今度は自分自身が、世界にとってカイ以上に予測不能で、危険な「魂の爆弾」と化してしまったことを悟りながら。アキラは、救い出した友のコアを抱きしめ、静かに笑った。その笑みは、救済の果てにある、底なしの絶望の色をしていた。
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