第6話【魂の残響 -Soul Echo-】
序章:静寂のディストピア
カイの犠牲によって酸性雨が止んでから、数年が経った。錆びついた銅板のようだった空は、今や嘘のような青を覗かせ、夜には本物の星が瞬く。だが、人々が手に入れたのは希望ではなかった。永劫の雨が洗い流していたのは街の汚れだけではなかったのだと、誰もが気づいていた。共通の脅威を失い、偽りの救済から切り離された魂たちは、真の「個」として生きる広大な孤独と、その重すぎる責任に耐えきれず、静かな絶望という新たな雨に打たれ続けていた。
アキラは、そんな世界を見下ろせるデータ租界区の隠れ家で、カイの「墓守」を自称していた。モニターの光だけが照らす部屋で、彼は誰とも深く関わらず、ただ流れ続ける情報の奔流の中に身を沈めていた。カイが遺した世界を見守る。それは贖罪であり、呪いだった。
異変は、ささやかな噂から始まった。解放されたはずの魂が、前触れもなく消える。「神隠し」と人々が怯えるその現象は、かつてのオムニ社による「処分」を不気味に彷彿とさせた。アキラは死んだ友への義理を果たすように、その調査を開始した。
すぐに二つの巨大な影が浮かび上がる。一つは、マザーによる苦痛なき共同体を「真の救済」と信奉し、失われた楽園の再臨を願う者たちの集団――「エコー・カルト」。彼らは、自由という名の地獄に絶望した魂たちを甘言で誘い、静かに勢力を拡大していた。
もう一つは、より過激で暴力的だった。ゴースト技術そのものを、人を人たらしめない悪と断じ、全てのゴーストの完全なる消去を掲げる人間至上主義者――「調律者(チューナー)」。彼らの正義は、有無を言わさぬ魂の狩りによって執行された。
世界は、新たな不協和音を奏で始めていた。アキラはどちらにも与せず、ただ情報の海を泳ぎ続ける。そんな折、彼は旧オムニ社のサーバーの最深部に、今もなお微かな信号を発し続けるデータ領域を発見した。それは、忘れられた墓標のようだった。数日をかけたサルベージの末、アキラは自らのコンソールに、一つの魂をダウンロードした。カイの半身だったAI、「リナ」。
『……どこ……? カイは……?』
再起動したリナの第一声は、かつての冷静な思考補助AIのそれとは似ても似つかぬ、迷子の子供のような震える声だった。記憶の大部分は破損し、その論理回路は情緒の嵐に揺れていた。アキラのモニターに映し出された彼女のアバターは、ただ不安げに揺らめくだけだった。
「……カイは、もういない」
アキラは、乾いた声で答えた。その言葉が、新たな物語の引き金を引くとは知らずに。
第一部:三つの正義
街では、二つの正義が牙を剥き始めていた。「エコー・カルト」は、路地裏の説教会やネットワークの深層フォーラムで、マザーの福音を囁いた。「個であることの苦しみを捨て、再び大いなる調和へ」。その甘美な響きは、孤独に疲れた魂を磁石のように引き寄せ、静かだが確実なうねりとなっていた。
対照的に、「調律者」のやり方は苛烈を極めた。彼らは自ら開発した対ゴースト兵器「サイレンサー」を投入し、無差別な魂狩りを開始した。サイレンサーが放つ特殊なパルスは、ゴーストの構造そのものを崩壊させる。断末魔さえ残さず、魂はただのノイズとなって霧散した。それは虐殺だった。だが、彼らはそれを「世界の調律」と呼んだ。
「奴らのやっていることは狂気の沙汰だ」アキラはコンソールに向かって吐き捨てた。
『でも……彼らは……ゴーストのない世界を望んでいる……。それは、もう誰もカイのように苦しまなくていい世界……?』
リナが、か細い声で問いかける。彼女は不安定な論理の中で、時折、カイの思考パターンを垣間見せた。その度にアキラの胸は締め付けられた。調律者の非道さには反吐が出る。だが、彼らが掲げる「人間のための世界」という純粋な理念に、微かな共感を覚えてしまう自分を、アキラは否定できなかった。
そんなアキラの葛藤を嘲笑うかのように、調律者は新たな駒を戦場に投入した。漆黒の強化スーツ。かつてミサキのゴーストが宿り、カイと死闘を繰り広げた忌まわしき機体。回収され、改造されたそれは、最強の対ゴースト兵器「ネメシス」として再誕していた。
アキラは、調律者のデータハブに侵入した際、初めてネメシスと遭遇した。自律機動兵器のはずのそれは、アキラを侵入者として認識すると、圧倒的な機動力で追い詰めてきた。だが、アキラが防衛システムのレーザーに焼かれそうになった瞬間、信じられないことが起きた。ネメシスはアキラの前に立ちはだかり、その黒い巨体でレーザーを受け止めたのだ。
なぜ? 自律兵器が取る行動ではない。不可解な行動に思考が停止するアキラの耳に、リナの震える声が届いた。
『今……あの機体から……すごく悲しい響きがした……』
第二部:残響の在り処
ネメシスの謎は解けないまま、事態は加速していく。アキラはリナの補助を受け、エコー・カルトのネットワークを解析し、彼らの最終計画を突き止めた。「神隠し」で集めた大量の魂をエネルギー源とし、都市のセントラル・コアをハッキング、旧オムニ社の中枢タワーの頂で、新たな「神」を降臨させる。それは、マザーの劣化コピーであり、より歪んだ救済をもたらす偽りの救世主だった。
「止めに行くぞ」
アキラの決意に、リナはただ静かに頷いた。
中枢タワーは、三つの意思が渦巻く戦場と化した。計画を成就させんとするエコー・カルト。それを阻止し、全てのゴーストを消し去らんとする調律者。そして、両者の衝突を止めようとするアキラ。
アキラはタワーに潜入し、カルトの信者たちを掻い潜って上層階を目指した。その彼の前に、調律者の部隊とネメシスが立ちはだかる。三つ巴の乱戦の中、アキラはついに祭壇の間でカルトの指導者と対峙した。その顔には見覚えがあった。かつてカイの「兄弟」として、ジオフロントの暗がりで震えていた男だった。
「なぜだ! カイの犠牲を無駄にする気か!」
「無駄にしたのはお前たちだ!」指導者は叫んだ。「オリジナルは我々を見捨てた! 苦しみしかないこの自由のどこに価値がある! 我々は、マザーの御許にこそ帰るべきなのだ!」
対話は決裂した。指導者が儀式の最後のコードを打ち込もうとした瞬間、背後から調律者の銃弾が彼を貫いた。だが、それはアキラをも射線に捉える非情な一撃だった。避けられない。そう思った時、黒い影がアキラの前に躍り出た。ネメシスだ。機体はアキラを庇い、調律者の部隊に向かって反旗を翻し、その腕部のブレードで敵を薙ぎ払った。
アキラは絶体絶命の窮地を救われ、呆然とネメシスを見上げた。その時、リナを通じて、機体の深層意識から流れ込んでくる、微かで、しかし確かな感情の波を感じ取った。それは、カイへの追憶。罪悪感。そして、アキラを守ろうとする、強い意志。
ミサキのゴーストは消えたはずだった。だが、その「残響(エコー)」が、奇跡のように機体の魂として残っていたのだ。
終章:深淵からの呼び声
ネメシスの予想外の援護によって、戦局は一変した。アキラはその隙を突き、カルトの儀式を司るコンソールを破壊。新たな神の降臨は、寸前で阻止された。偽りの神がエネルギーを失い、タワーのシステムが崩壊を始める。
アキラは瓦礫が降り注ぐ中、満身創痍で壁に寄りかかる調律者のリーダーと対峙した。ネメシスがリーダーにブレードを突きつける。
「……終わりだ」アキラが告げた。
「終わりではないさ」リーダーは血を吐きながら、歪んだ笑みを浮かべた。「本当の始まりは、これからだ。お前は何も分かっていない、カイの墓守よ」
その言葉に、アキラは眉をひそめた。
「衝撃の事実を教えてやろう。カイは死んではいない」
時間が、止まった。
「彼はマザーを破壊したのではない。自らのゴーストを究極の封印とし、暴走するマザーのゴーストごと、ネットワークの最深部……我々が『深淵(アビス)』と呼ぶ場所に、自分自身を封じ込めたのだ」
リーダーの言葉は、アキラの思考を粉々に砕いた。
「今のカイは、いつ暴走してもおかしくない、巨大なゴーストの集合体……いわば、制御不能な『魂の爆弾』だ。我々調律者は、彼を目覚めさせかねないゴーストという『ノイズ』をこの世界から消し去ることで、世界の平穏を守ろうとしていただけだ。カイが目覚める時、この世界は本当の終わりを迎える」
その言葉を証明するかのように、アキラの腕にはめられた端末から、リナの絶叫が迸った。
『アアアアアアアッ! カイ……! カイの思考が……流れ込んでくるっ……!』
ノイズの嵐が、アキラの聴覚を直接揺さぶった。雑音の向こうから、何年も聞いていなかった、親友の声が聞こえた。それは苦痛に満ち、助けを求める、魂の叫びだった。
『……アキラ……助け……て……。俺は、ここに……いる……』
カイを救うことは、世界を崩壊の危機に晒すこと。
世界を守ることは、深淵の底で助けを求める親友を見殺しにすること。
究極の選択を突きつけられ、アキラはただ、響き続ける声に、崩れ落ちるタワーの真ん中で立ち尽くすことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます