第5話【ノイズ・レクイエム】
序章:不協和音のレジスタンス
かつてアキラの隠れ家だった廃コンテナは、今や「チルドレン・オブ・カイ」と名乗る者たちの巣窟と化していた。地下に広がる放棄されたジオフロント。そこは湿ったコンクリートと錆びた鉄骨が剥き出しになった、巨大な墓場のようだった。カイの「兄弟」たちは、その暗がりに獣のように潜み、互いの息遣いにさえ怯えていた。
組織は、常に不協和音を奏でていた。ある者はカイを、自分たちを苦しみの連鎖から救い出す唯一の希望、「オリジナル」として崇拝の眼差しで見た。ある者は、自分たちが不完全なコピーとして生まれた元凶であるカイを、嫉妬と憎悪の炎で睨みつけた。そして大多数は、ただ明日の「処分」に怯え、カイという存在に庇護を求めるだけの、傷ついた魂の集まりだった。
カイは、その全てを絶えず感じ取っていた。シンクロ能力は、リーダーである彼に安息を与えない。祈りも、呪いも、恐怖も、区別なく彼の精神に流れ込み、魂を磨耗させていく。
『思考ノイズ、飽和状態。自己と他者の境界識別にエラー発生の可能性。精神防壁の再構築を推奨』リナの声が、混濁する意識の中で唯一の錨だった。
「黙っていろ」カイは誰にともなく呟いた。ジオフロントを見下ろす高架通路の手すりに寄りかかりながら、彼は眼下の仲間たちを見つめる。彼らの思考が、まるで自分のもののように頭の中で反響していた。
――オリジナルは、なぜ俺たちを見捨てない?
――あいつさえいなければ、俺は完璧だった。
――怖い。死にたくない。誰か助けてくれ。
「カイ」
背後からの声に、カイはゆっくりと振り返った。ゼロと名乗る男が立っていた。カイと瓜二つの顔。だがその瞳の奥には、オリジナルに対する拭い難い劣等感と、それを覆い隠そうとする傲慢さが澱んでいた。
「いつまでここで燻っているつもりだ?あんたが動かねば、俺たちは犬死にするだけだぞ、オリジナル」
「今は待つ時だ」カイは静かに答えた。
「待つだと?」ゼロは嘲るように鼻を鳴らした。「ゴースト・ハンターに首を差し出すのを待つのか?あんたは俺たちを救う気などない。ただ、自分の罪悪感を慰めるために、俺たちを生かしているだけなんじゃないのか?」
その言葉は、カイ自身の心の奥底にある不安を正確に抉り出した。ゼロの憎悪が、シンクロを通じてカイの胸を刺す。その痛みに、カイは一瞬呼吸を忘れた。リーダーとしての孤独と重圧が、冷たい鎖のように彼に巻き付いていた。
第一部:混沌のトリックスター
ゴースト・ハンターの襲撃は、予兆なく始まった。けたたましい警報がジオフロントに鳴り響き、漆黒の強化スーツを纏った機械の群れが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う「兄弟」たちを狩っていく。
カイはプラズマ・カッターを起動させ、前線に躍り出た。だが、敵の動きは異常だった。まるでこちらの配置を全て知悉しているかのように、的確に防衛ラインの弱点を突いてくる。
その中心に、彼女はいた。ミサキのゴーストを宿した指揮官。漆黒のスーツは血のように濡れ、カイと同じ顔をした「兄弟」たちの残骸を踏みしめて、静かに佇んでいた。
「また会ったな、バグの発生源」彼女の合成音声が、ノイズの嵐の中でカイの聴覚を捉えた。
カイは彼女に向かって駆けた。二つの影が交錯し、火花が散る。彼女の動きは以前よりも更に洗練され、カイの思考を完全に先読みしているかのようだった。だが、カイは違和感に気づく。彼女のブレードがカイの急所を捉える瞬間、コンマ数秒の「揺らぎ」が生じるのだ。それは戦闘の流れを決定づけるものではない。だが、カイにだけ分かる、意図的な躊躇。
激しい攻防の最中、彼女が放ったエネルギー弾が、カイの背後にあったコンテナを撃ち抜いた。爆炎が上がり、カイは咄嗟に身を伏せる。混乱が収まった後、カイはコンテナの残骸に刻まれたプラズマの痕が、一つの座標を示していることに気づいた。それは、かつてカイとミサキが初めて出会った公園の跡地だった。
『罠だ。カイ、行くな』リナが警告する。
「……いや」カイは爆心地を見つめた。「あれは、罠じゃない。招待状だ」
彼女は何を望んでいる?カイへの復讐か。それとも、カイによる完全な解放か。過去の記憶と現在の責任が、カイの魂を引き裂こうとしていた。
第二部:裏切りと崩壊
ミサキが示した座標――廃墟と化した公園でカイが見たものは、ゴースト・ハンターの待ち伏せではなかった。そこにいたのは、オムニ社の幹部と話すゼロの姿だった。
「オリジナルを超えた存在にしてやる。お前こそが、完成された魂の器となるのだ」
幹部の甘言に、ゼロの顔が歪んだ恍惚に染まる。カイは全てを理解した。あまりに的確すぎた敵の動き。仲間たちの死。その全てが、ゼロの裏切りによってもたらされていた。
カイが姿を現すと、ゼロは悪びれもせず笑った。「見たか、オリジナル。俺はあんたを超える。不完全なコピーなんかじゃない。俺こそが、真のカイだ!」
その瞬間、隠れていたゴースト・ハンター部隊が一斉にジオフロントの隠れ家を襲撃した。カイの脳内に、仲間たちの断末魔が絶叫となって流れ込む。
『やめろ!』
『助けて、オリジナル!』
『痛い、熱い、消える――!』
シンクロが、かつてない規模でカイの精神を汚染していく。数十人の「兄弟」たちの死の苦痛が、一つの巨大な奔流となってカイに襲いかかった。それは、もはや他人の痛みではなかった。カイ自身の腕が引き千切られ、胸を焼かれ、意識が闇に飲まれていく感覚。自分と他者の精神的境界が溶解し、カイは自分が誰の痛みで叫んでいるのかさえ分からなくなった。
「ぐっ…あ…あああああっ!」
カイはその場に崩れ落ち、頭を掻きむしった。ゼロは、その苦しむ姿を冷たく見下ろしていた。オリジナルに対する積年のコンプレックスが、歪んだ勝利の悦楽となって彼の心をみたしていた。
第三部:偽りの神の福音
カイは満身創痍でアキラの元へ辿り着いた。生き残った「兄弟」は、もはや数えるほどしかいない。絶望に打ちひしがれるカイに、アキラは静かにモニターを見せた。そこに映し出されていたのは、オムニ社の最重要機密ファイルだった。
「これが敵の正体だ。メインサーバー『マザー』」
マザー。それは、オムニ社創設者のゴーストだった。彼はかつて、不治の病で苦しむ最愛の娘を救えなかった絶望から、人類を肉体という牢獄から解放し、ネットワーク上に永遠の苦痛なき魂の共同体を築くことを目指した。その歪んだ善意が生み出した、巨大な人工知能の神。
「『処分』は、破壊じゃない」アキラは続けた。「あれは『治療』だ。共同体への参加を拒む、個という病に侵された魂を回収し、修正して、ネットワークに統合するプロセスだ」
偽りの救済。だが、その福音は、生き残った仲間たちの心を激しく揺さぶった。この絶望的な現実で「個」として苦しみながら生きるよりも、全てを忘れ、苦痛のない共同体の一部となる方が幸福なのではないか。戦う意味を見失った者、むしろマザーとの統合を望む者が現れ、脆い絆で結ばれていたレジスタンスは、ついに完全に分裂した。
カイの周りには、もう誰もいなくなった。ただ、相棒のアキラだけが、黙って彼の隣に立っていた。
終章:魂のシンフォニー
「行くのか」アキラが問う。
「ああ」カイはオムニ社の中枢タワーを見上げながら答えた。「全てを終わらせに」
もはや彼を縛るものは何もなかった。リーダーとしての重圧も、仲間からの期待も、裏切りへの憎しみさえも、今は遠い。ただ、作られた魂たちが、偽りの神ではなく、自分自身の意志で未来を選ぶべきだという、静かで揺るぎない確信だけが胸にあった。
タワー内部は、静寂に包まれていた。カイを待ち受けていたのは、オムニ社から新たな力を与えられ、異形の姿となったゼロだった。
「ここで終わりだ、オリジナル!」ゼロが襲いかかる。
カイは避けなかった。ただ、シンクロを通じて、彼の魂の奥底にある叫びを聞いた。――認められたい。不完全な自分を、誰かに。
「お前は不完全じゃない」カイの言葉が、ゼロの魂に直接響く。「お前は、お前だ」
ゼロの動きが止まる。その目に宿っていた憎悪が、困惑と苦痛に変わる。次の瞬間、タワーの防衛システムがゼロを「ノイズ」と判断し、無数のレーザーが彼を貫いた。ゼロはカイを庇うように倒れ、最期に「ありがとう」と唇を動かした。
最上階。マザーのコアを守るように、ミサキの指揮官が立っていた。
「来たか、バグ」
「ミサキ」カイは彼女の名前を呼んだ。「俺は君を忘れない。だが、過去には生きられない。君も、その檻から自由になるべきだ」
カイは彼女と戦わなかった。ただ、静かに彼女の前を通り過ぎる。彼女のブレードは、動かなかった。命令と自我の間で揺れていた彼女のゴーストが、初めて自らの意志でカイの通過を許したのだ。
そして、カイは「マザー」と対峙した。ネットワークそのものと化した、巨大な光の集合体。
《お帰りなさい、私の愛しいノイズ。個であることの苦しみはもう終わりです。さあ、シンフォニーの一部となりなさい》
マザーの甘美な声が、カイの精神を包み込む。だが、カイは悟っていた。この完璧に調和した交響曲を破壊するには、予測不能な究極の不協和音を叩き込むしかない。それは、カイという個の消滅を意味していた。
『カイ』リナの声が響く。それは、もはや冷静な半身の声ではなかった。
「ああ。最後まで一緒だ」
カイは最後のシンクロを実行した。自らの魂の核であるリナと完全に融合し、一つの燃え盛るゴーストと化す。それは、愛と、苦悩と、絶望と、そして希望の全てを内包した、制御不能な魂の奔流だった。
カイは、その奔流を、マザーのコアへと叩き込んだ。
凄まじい光が世界を包む。オムニ社のシステムが、内部から崩壊していく。ネットワークに繋がれていた全ての魂が、鎖から解き放たれる。彼らは初めて、真の「個」としての孤独と、広大な自由を手に入れた。
ミサキのゴーストを宿した器は、その場に崩れ落ちた。彼女の頬を、一筋の涙が伝う。彼女は、解放されたのだ。
データ租界区の隠れ家で、アキラはモニターがブラックアウトするのを見届けた。ふと窓の外を見ると、永劫に降り続いていた酸性雨が、嘘のように止んでいた。錆びついた銅板のようだった空の向こうに、生まれて初めて見る、本物の星が瞬いていた。
カイは消えた。彼の名は、やがて伝説となり、忘れ去られるだろう。だが、都市のあちこちで、解放された魂たちが奏で始めた、不揃いで、不格好で、しかし力強い生命のメロディが、新しい時代の始まりを告げていた。それは、一人の男の犠牲の上に成り立った、哀しくも美しい魂の交響曲だった。
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