第4話【シンクロ・ノイズ】
あれから何度目の酸性雨だろうか。データ租界区の空は、錆びついた銅板のように淀み、絶えず毒の涙を流していた。アキラの隠れ家である廃コンテナの屋根を叩く雨音は、カイの頭蓋に直接響くノイズのようだ。数ヶ月前、オムニ・コーポレーションという神の墓標からリナという魂の欠片を盗み出して以来、世界は何も変わらない。だが、カイ自身は、決定的に変質してしまっていた。
『思考ノイズ、増大。心拍数、上昇。鎮静プロトコルを推奨』
内なる声が囁く。リナだ。かつて神経回路に寄生したゴーストは、今やカイの魂そのものに編み込まれ、彼の生体機能を監視する冷静な半身となっていた。彼女との融合は、カイに「シンクロ」という呪いにも似た能力を与えた。それは、同じ魂の設計図――カイの記憶OSを移植された「兄弟」たちの思考や感情を、盗聴するかのように受信する能力だった。
「黙っていろ、リナ。これは俺の問題だ」
カイは窓の外の汚れた夜景に目を向けたまま、吐き捨てる。静寂は、もはや安らぎではなかった。いつ、どこから流れ込んでくるか分からない、見知らぬ誰かの絶望を待つ、息苦しい時間でしかなかった。
その瞬間、電流が背骨を駆け上がった。
『――やめろ、来るな!俺は欠陥品じゃない!俺は、オレはァ!』
金切り声。恐怖。サイバネティクス義体が破壊される甲高い金属音と、肉が焼ける臭いの幻影。断末魔の叫びは、カイ自身の喉から迸ったかのように生々しく脳を焼いた。見知らぬ「兄弟」が、どこかの暗い路地で「処分」されていく光景が、乱れた映像となって網膜に焼き付く。狩る者は、冷徹で無慈悲な機械の群れ。ゴースト・ハンター。
「……またか」
カイは壁に額を打ち付けた。自分の魂を切り売りされて生まれた者たちが、バグとして消去されていく。その苦痛と絶望が、波のように寄せては返す。俺は生き延びた。だが、彼らは見捨てられた。この魂の共有は、カイに逃れられない罪悪感を突きつけていた。
『彼の恐怖は、我々の恐怖。彼の痛みは、我々の痛み』リナの声は、どこまでも静かだった。
「ああ、そうだな」カイは顔を上げた。義眼の奥に、冷たい光が灯る。「なら、俺はもう傍観者でいるわけにはいかない」
アキラは、山積みのジャンクパーツの山に埋もれながら、呆れたようにため息をついた。「レジスタンスだと?正気か、カイ。お前はオムニ社から逃げ延びただけの、ただのゴースト憑きだ。組織ごっこを始めるには、魂も仲間も足りてねえ」
「だから集める」カイはアキラのモニターに表示された地下セクターの地図を指さした。「ゴースト・ハンターの活動記録から、まだ狩られていない『兄弟』の潜伏エリアを割り出せ。俺が行く」
最初の接触は、廃棄された地下鉄の車両区だった。錆と汚泥の臭気が満ちる闇の中、ターゲットの男は獣のように唸っていた。移植された記憶OSが、リナというバグの奔流によって汚染され、精神の均衡を失っているのだ。
「オリジナル……!お前さえいなければ、俺は完璧なままでいられた!」男は憎悪を剥き出しに、強化アームを振りかぶる。
カイは攻撃を避けない。ただ、男の前に静かに立った。『シンクロする』リナの声と同時に、カイは意識を深く沈めた。男の混乱、与えられた偽りの幸福にしがみつこうとする渇望、そして欠陥品と断じられた絶望が、カイ自身の感情となって流れ込んでくる。カイは、その濁流の中から、ただ一つの純粋な感情を探り当てた。――誰かに認められたい、という孤独な叫びを。
「お前は欠陥品じゃない」カイは言った。自分の言葉が、男の魂に直接響くのを感じる。「俺たちをそう呼ぶ連中が、間違っているだけだ」
男の腕が、カイの目前で止まった。その空虚な目に、初めて困惑の色が浮かぶ。憎しみと憧れと、そして微かな依存。カイは彼ら「チルドレン・オブ・カイ」にとって、憎むべき根源であり、同時に唯一の理解者となり得る存在だった。
そうして一人、また一人と、カイは魂の兄弟たちを集めていった。彼らはカイを「オリジナル」と呼び、複雑な感情を抱きながらも、その圧倒的な存在感に従った。だが、レジスタンスというには、あまりに脆い傷ついた魂の集まりだった。彼らの動きを嗅ぎつけたゴースト・ハンターの追跡は、日増しに苛烈を極めていく。仲間が狩られ、その断末魔が「シンクロ」を通じてカイの精神を削り取っていく。そして、カイたちは気づき始めていた。敵の動きが、あまりに的確すぎることに。まるで、こちらの思考を読む者がいるかのように。
雨が降りしきる工業プラントの屋上。仲間を囮にするという苦渋の作戦の末、カイはついにゴースト・ハンターの指揮官と対峙した。そこに立っていたのは、漆黒の強化スーツに身を包んだ、一人の女だった。その立ち姿、武器の構え方、殺気の放ち方。全てが、鏡に映したカイ自身のように酷似していた。
「ようやく会えたな、オリジナル」女の声は、合成音声のように平坦だったが、どこか懐かしい響きがあった。「全てのバグの発生源。お前を消去すれば、我々のシステムは安定を取り戻す」
戦闘は、カイの予測を遥かに超えていた。彼の全ての動き、全ての思考が、先読みされている。義肢が火花を散らし、体勢を崩したカイの喉元に、女のブレードが突きつけられた。その時だった。女が、風に流れた前髪を、指で払う。その何気ない仕草が、カイの記憶の深淵に突き刺さった。
――酸性雨に濡れた公園のベンチ。舞い散る、あり得べからざる桜の花びら。誰かの温かい手の感触。
『ミサキ……』カイの唇から、無意識にその名が漏れた。
女の動きが、コンマ数秒、硬直する。『思考パターン、酷似。いや……同一』リナの声が、悲痛な確信をもって響いた。『カイ。彼女のOSは……あなたの失われた記憶の中で、最も愛した女性……』
嘘だ、と叫びたかった。だが、カイは理解してしまった。オムニ社が、カイを精神的に破壊するためだけに、最愛の人の魂を冒涜し、最強の刺客として仕立て上げたことを。
「過去という名のバグに囚われたか、欠陥品」女――ミサキのゴーストを宿した人形が、冷たく言い放つ。
その言葉は、カイの心を抉った。美しい記憶が、殺意となって自分に牙を剥く。攻撃の手が鈍り、脳裏にミサキとの穏やかな日々がフラッシュバックする。この手を、この顔を、この声を、俺は破壊できるのか?
仲間たちの絶望の声が、遠くで聞こえる。新しい魂の家族である「兄弟」たちの顔が浮かぶ。過去に生きるか、今を守るか。究極の選択が、錆びついた魂に突きつけられた。
カイは、ブレードを喉元に受けたまま、顔を上げた。
「お前は、ミサキじゃない」
彼の声は、静かだった。だが、そこには揺るぎない決意が宿っていた。
「そして、ただの器でもない。お前もまた、俺と同じ……オムニ社に魂を奪われた被害者だ」
カイは彼女を殺すことをやめた。代わりに、リナと完全にシンクロし、自らの意識の奔流を、女の神経回路へと叩き込む。目的は破壊ではない。解放だ。彼女を縛り付けるオムニ社の制御システムへの、魂のハッキング。
「ぐっ……ぁ……や、め……」
ミサキの顔をした指揮官が、苦悶に顔を歪める。カイの記憶とミサキの記憶、そしてOSとしての命令が彼女の中で激しく衝突し、火花を散らす。カイ自身も、凄まじい精神的フィードバックに意識が焼き切れそうになる。
激しい攻防の末、カイは彼女の制御システムの一部を破壊することに成功した。だが、深手を負い、その場に膝をつく。指揮官は完全には解放されなかった。混乱した目でカイを睨みつけ、闇の中へと撤退していった。
隠れ家に戻ったカイを、生き残った仲間たちが無言で迎えた。アキラは黙って医療キットを投げ渡す。モニターには、依然としてオムニ社のエンブレムが、この都市の支配者として冷酷に輝いていた。
個人の過去を取り戻すための戦いは、終わった。今、ここにいるのが俺の全てだ。カイは傷ついた身体を起こし、窓の外に広がるデータ租界区の夜景を見つめた。その義眼に宿るのは、もはや失われた過去への郷愁ではない。作られた魂を持つ全ての「兄弟」たちを率い、偽りの神に戦いを挑む、レジスタンスの指導者としての冷たく、しかし燃えるような意志の光だった。
本当の戦いは、今、始まる。
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