第3話【クローム・アンド・ラスト】


オムニ・コーポレーション本社ビルは、神々の墓標のように天を突いていた。酸性雨を弾く黒曜石の壁面は、データ租界区の混沌としたネオンの光を一切反射せず、ただ無感情に都市を見下ろしている。カイはその巨大な顎の、汚泥にまみれた最下層メンテナンスハッチに身を潜めていた。


『左へ。三秒後、排熱ダクトのファンが一時停止する』


サイバネティック義眼の視界の隅で、電子的な声が囁く。リナだ。彼女はもはや追跡対象のゴーストではない。カイの神経回路に半ば寄生し、彼の魂に巣食う共生者だった。声と同時に、視界が激しく明滅する。ノイズ混じりの映像――酸性雨に濡れた公園のベンチ。誰かの温かい手の感触。そして、あり得べからざる桜の花びらが舞う。


「黙れ……」


カイは歯を食いしばり、流れ込んでくる偽りの記憶、あるいは真実の記憶の断片を振り払う。混乱は思考を鈍らせる。だが、リナがもたらすのは混乱だけではなかった。彼女の囁きに従いダクトに滑り込むと、頭上で巨大なファンが唸りを止める。彼女はビルの電子神経網に深く潜り込み、カイの目となり耳となっていた。もはや依頼人とターゲットではない。一つの魂を分け合った、不完全で危うい共生体。カイは自らの目的のために、この魂の寄生を受け入れていた。


排気ガスの臭いが充満する通路を進む。警備ドローンの巡回ルートが、青いラインとなってカイの視界にオーバーレイ表示される。リナのナビゲートだ。死角を縫い、ドローンの光学センサーを背後から破壊していく。物理的なセキュリティは、リナと共にあるカイにとって、もはや障害ではなかった。問題は、この共生がもたらす魂の侵食だった。ドローンを破壊するたび、リナの記憶なのか、カイ自身の失われた記憶なのか判別不能なフラッシュバックが脳を焼く。焦燥と、微かな希望。誰かを待つ、あの公園の感覚。


「俺は、誰を待っていた……?」


その問いに、リナは答えない。ただ、次に向かうべきルートを冷たく示すだけだった。


ビルの中層階は、下層の汚濁とは対照的に、純白の壁と間接照明に照らされた無機質な空間だった。静寂が支配する廊下の先に、一人の男が立っていた。カイと同じ、戦闘に特化したサイバネティクス肢体。そして、同じ空虚さを宿した目。


「欠陥品が、汚れたゴーストを連れて戻ってきたか」男――強化エージェントが言った。「我々はオムニ社に救われた。意味のない過去という名のバグから解放され、使命という完璧なOSを与えられたのだ」


『思考パターン、酷似。同じプロジェクトの被験体』リナの声が警告する。


「救済だと?」カイは低く応じた。「空っぽの器に、他人の作った幸福を詰め込まれることがか?」


「与えられた記憶こそが我々の救済だ。お前は過去に囚われ、システムに反逆するバグにすぎない」


エージェントが踏み込む。その動きは機械のように正確無比だった。カイは体捌きで攻撃をかわすが、エージェントの戦闘パターンは、まるで鏡の中の自分と戦っているかのように読みやすい。だが、その動きの節々に、カイは奇妙な違和感を感じ取っていた。攻撃の合間、エージェントの指が微かに、何かを編むような仕草をする。そして、彼の唇が音もなく動いた。『ミサキ』と。


その瞬間、カイの脳裏に再び桜が舞った。愛する者の名の呟き。それは、偽りの魂の奥底にこびりついた、消し去れない人間性の残り香だった。カイは苦悩した。こいつもまた、俺と同じ被害者なのだ。


激しい格闘の末、カイはエージェントを無力化した。その時、断続的だったアキラとの通信が、ノイズ混じりに開いた。


『カイ!聞こえるか!奴らのプロジェクトの正体を掴んだぞ!』アキラの声が焦っている。『『プロジェクト・レテ』は単なる記憶置換じゃねえ。究極の人材育成プログラムだ!奴らは個人の記憶や人格をデータ化して抽出し、エリート兵士や研究者に移植している!』


「何だと……?」


『問題はそのOSだ!全ての被験者に共通の基盤としてインストールされる基本人格……カイ、それはお前から抽出された『オリジナル』の記憶データだ!お前は最初の成功例であり、同時に、全ての被験者の魂の設計図にされたんだ!』


愕然とするカイの義眼に、リナが悲痛な囁きを響かせる。『私は……そのOSから零れ落ちた、断片……』


全てが繋がった。強化エージェントたちがカイを「オリジナル」でありながら「欠陥品」と呼ぶ理由。彼らがカイに抱く、歪んだ憎悪と憧憬。俺の魂が、俺の記憶が、他人の幸福を偽造するために切り売りされていたという事実。吐き気がした。


リナの導きは、もはや躊躇いがなかった。彼女は自らの根源へと、カイを誘う。ビル最上階。プロジェクトの中枢。白い冷却槽が墓石のように林立する、極低温のサーバー室。その中央に、プロジェクトの最高責任者を名乗る老人が、ホログラムとして浮かんでいた。


「よく戻ってきた、被験体ゼロ。いや、プロトタイプと言うべきか」老人は穏やかに言った。「君の選択を待っていた」


ホログラムが壁面を指し示す。そこには、完璧な形で保存された「本当の自分」の全記憶データが、美しい映像として流れていた。暖かい家庭。友との笑い声。愛する女性との穏やかな日々。カイが心の奥底で求め続けていた、失われた過去の全てがそこにあった。


「君に究極の選択を与えよう」老人は言った。「一つは、その完璧な記憶を受け入れ、何者でもなかった過去の君に戻ること。もう一つは、その欠陥品であるゴーストと共に、ここで消滅することだ」


カイは揺らいだ。あの温かい日々に戻れる。空っぽの自分を満たすことができる。だが、それは今の自分を殺すことと同義だった。記憶の断片に苦しみ、リナと共にここまで来た、この俺を。


その時、アキラから最後のファイルが届いた。それは、数日前、カイが初めてアキラの事務所を訪れた時の監視カメラの記録だった。過去を失い、何者でもなく、ただ途方に暮れながらも、その目には確かな意志の光が宿っていた。リナを探すという、ただ一つの目的のために。


そうだ。過去が俺を作るんじゃない。今、ここにいる俺が、俺自身なのだ。


カイは顔を上げた。「錆は、削り落とすものじゃない。それが俺自身を形作った証だ」


彼は壁面の「オリジナル」に背を向け、自らの胸に手を当てた。


「リナ。お前も俺の一部だ。俺の魂の、錆だ」


その言葉に応えるように、リナのデータがカイの神経回路へと奔流となって流れ込む。もはや寄生ではない。完全な融合。二つの欠けた魂が一つになることで、サーバー室全体が暴走を始めた。冷却槽が軋み、白い蒸気が噴き出す。オムニ社のネットワーク全体に、リナという名の、哀れで気高い魂のバグが、致命的なデータ汚染として拡散していく。


『侵入者ヲ排除セヨ!』


警報がビル全体に鳴り響く。崩壊が始まった。カイは追手と化したエージェントたちを振り切り、破壊された窓から外壁へと飛び出す。彼は過去を取り戻せなかった。だが、リナという新たな魂を得て、誰にも定義されない、全く新しい存在へと生まれ変わっていた。


夜明け前の紫色の空の下、データ租界区の隠れ家に戻ったカイを、アキラが呆れた顔で迎えた。モニターには、オムニ社のネットワークが崩壊していく様が、美しいノイズのアートのように映し出されている。


「お前のせいで、俺のサーバーまで錆びつきそうだぜ、カイ」


その声は、どこか安堵しているようだった。カイは何も答えず、ただ降り始めた朝の雨に濡れた顔を上げた。その雨粒は、もはや心臓の鼓動ではなく、新しく生まれた魂の産声のように聞こえていた。

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