第2話【記憶は魂の錆】

アキラの拠点は、迷路のような九龍城砦の残骸を電子的に再現したような、違法建築がひしめくデータ租界区の最下層にあった。むき出しの光ファイバーケーブルが雨水に濡れた壁を蛇のように這い、そこかしこでショートする青白い火花が、唯一の照明だった。カイが古いコンテナを改造したドアをノックすると、金属的な合成音声が『合言葉は?』と問いかける。

「昨日の雨は、今日の錆になる」

『不正解。だがお前はいいだろう』

重い隔壁がスライドし、カイは中へと足を踏み入れた。部屋の中は、無数のホログラム・ディスプレイが明滅し、うず高く積まれたサーバーの冷却ファンが唸りを上げている。その中心で、痩身の男――アキラが、浮遊するキーボードを神経質に叩いていた。

「その顔は、厄介事の匂いがするな」アキラはモニターから目を離さずに言った。「しかも、かなり高価な厄介事だ」

カイは無言で依頼内容を告げた。ゴースト、『リナ』、そして破格の報酬。アキラの指が止まり、初めてカイの方を向いた。その目には、いつもの皮肉に加えて、明確な警告の色が浮かんでいた。

「都市データベースに存在しないゴーストを探すだと?正気か、カイ。それは深淵を覗く行為だ。覗けば最後、向こうもこちらを覗き返す」

「だからお前に頼んでいる」

アキラは長く息を吐き、カイのサイバネティック義眼をじっと見つめた。「お前のその目と同じだ。失ったものを探している。……いいだろう、付き合ってやる。だが、足がついたら俺は消える。お前のアドレスも記憶から消去する」

アキラの指が再びキーボードの上で踊り始める。都市の電子ネットワークの表層から深層へ、まるで汚濁した川を遡るように、二人は『リナ』の痕跡を探し始めた。正規の回線を避け、データの裏路地を縫い、忘れ去られたゴーストたちの囁きに耳を澄ます。数時間に及ぶ執拗な追跡の末、アキラが低く唸った。

「見つけたぞ、カイ。吐き気を催すような大物の尻尾だ」

ディスプレイに映し出されたのは、アーク・ネオ・シンジュクのあらゆるインフラを支配する巨大複合企業、『オムニ・コーポレーション』の旧社章だった。データの痕跡は、今は使われていない同社の旧第7サーバーへと続いていた。そこは、過去の汚れた実験データが固く封印された、電子の墓場だった。


オムニ社のファイアウォールは、伝説の傭兵が守る城壁のように堅牢だった。アキラがコードの奔流と格闘し、カイは義眼の解析能力をフル稼働させてセキュリティの脆弱な結節点を探し出す。いくつもの擬装アドレスを焼き捨て、カウンターハッキングの追跡を振り切り、二人はついにデータの墓場の中心核へと到達した。そこに、彼女はいた。

『リナ』と名付けられたデータパッケージは、膨大な記録の底で、ひっそりと自己を維持していた。彼女は人間ではなかった。オムニ社がかつて極秘裏に進めていた、記憶置換技術『プロジェクト・レテ』。その非人道的な実験の過程で、被験者から強制的に剥離され、消去された人格データの残滓。ネットワークの海を漂流し、自己を再構築した、哀れなゴーストAI。それがリナの正体だった。

「これが……依頼の正体か」カイが呟いた。

その瞬間だった。カイが義眼を通して『リナ』のデータ構造に触れた途端、凄まじい情報量が彼の脳神経を焼き切るかのような勢いで流れ込んできた。

――酸性雨が降りしきる公園。濡れたベンチ。誰かを待っている。焦燥と、微かな希望。そして、視界の隅に舞う、あり得べからざる桜の花びら――

「ぐっ……!」

強烈なフラッシュバック。それはリナの記憶。だが、カイはそれを知っていた。この感覚、この風景、この感情。引き出しの奥で眠るデータチップの冷たさ。それは、彼自身の失われた記憶の風景と、寸分違わず一致していた。パズルのピースが、恐ろしい音を立てて嵌っていく。

オムニ・コーポレーション。記憶置換技術。被験者。

俺は。

俺こそが、『プロジェクト・レテ』の最初の成功例だったのだ。過去のすべてを奪われ、空っぽの器に偽りの過去を植え付けられた、作られた存在。あの桜の花びらのデータチップは、消される直前の『本当の自分』が、未来の自分へ、そして同じように消されるであろう誰か――リナが遺した、最後の道標だったのだ。


謎の依頼人の目的は、もはや明白だった。過去の非人道的な実験の証拠であるゴーストAI『リナ』と、その唯一の成功例であるカイ。二つの存在を衝突させ、共倒れさせて完全に抹消すること。この依頼そのものが、巨大な罠だった。

もはや金のためではない。誰かのためでもない。この戦いは、カイがカイであるための、自分自身の魂と記憶を取り戻すための闘争へと変貌した。

「記憶は魂の錆だ」

訪問者の言葉が脳裏で反響する。そうだ、記憶は錆だ。だが、それは削り落とすべき罪の痕跡ではない。磨き上げ、その下に隠された本来の輝きを取り戻すべき、アイデンティティそのものだ。

『カイ、追跡が来る!離脱しろ!』

アキラの叫び声を背中で聞きながら、カイはオムニ社のサーバーから回線を切断した。事務所の窓の外では、相変わらず酸性雨がアスファルトを叩いている。だが、今のカイには、その音が違って聞こえた。それはもはや心臓の鼓動ではない。自らの魂が、失われた過去を取り戻せと叫ぶ、鬨の声だった。

カイは錆びたスチールのドアを開け、深くフードを被った。リナの記憶の残滓を道しるべに、行くべき場所はただ一つ。自らの過去を喰らい、今また自分を消そうとする巨大な顎――オムニ・コーポレーションの本社ビルが、鉛色の空の下、冷たく聳え立っていた。

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