魂は酸性雨に錆びる
nii2
第1話
酸性雨がアスファルトを叩きつける音は、この街の心臓の鼓動に似ていた。鉛色の分厚い雲が、アーク・ネオ・シンジュクの空を重く覆い、巨大ホログラム広告のけばけばしい光だけが、降りしきる雨の筋を幻惑的に七色に染め上げていた。2088年。人々は濡れたアスファルトに映るネオンの川を見つめ、深くフードを被って言葉もなく通り過ぎていく。誰も、この世界を覆い尽くす鉛色の空を見上げようとはしない。
雑居ビルの七階。錆びたスチール製のドアのすりガラスに、『甲斐探偵事務所』とだけ記された古びたプレート。その奥が、カイの仕事場であり、住居でもあった。探偵とは名ばかりの、記憶屋。彼の生業は、他人が捨てた記憶、盗まれた記憶、あるいは存在しないはずの記憶を、都市の電子の闇から探し出すことだった。安物のシンセティック・アルコールの匂いと、埃を被った古い機材が放つオゾンの独特な混淆が、淀んだ空気の中で緩やかに循環している。
カイは窓の外に目を向けたまま、無意識にテーブルの表面を指先でなぞっていた。引き出しの奥にしまい込んだ、桜の花びらのホログラムが封じられた古いデータチップの、あの冷たい感触を思い出す。意味も、価値も分からない。だが、決して捨てられないガラクタ。それは、彼の曖昧な過去そのものだった。
無機質なブザー音が、重苦しい静寂を破った。カイは右目のサイバネティック義眼を微かに光らせ、網膜にドアのセキュリティ映像を投影する。性別すら判然としない、深くフードを被り、音声変調器を使用しているであろう人物のシルエットがそこに映し出されていた。
「開いている」
カイが短く告げると、重いスチール製のドアが軋みを上げて開いた。訪問者は音もなく室内へ滑り込み、カイと錆びた金属製のテーブルを挟んで向かいの椅子に腰を下ろす。撥水加工のトレンチコートから滴り落ちる雨水が、古びたフローリングに小さな染みを広げていく。
「記憶屋カイだな」変調器を通した声は、軋む金属のような不快な響きだった。
「依頼内容による」カイは、冷めた声で応じた。義眼のセンサーは、訪問者のトレンチコートの下に隠されたであろうものに意識を集中させる。武器の気配はなかった。
「探してほしい記憶がある」訪問者は何の躊躇もなく、ずしりと重いクレジットチップをテーブルに滑らせた。「成功報酬だ。前金で半分支払う」
カイの義眼のレンズが瞬時にチップの情報をスキャンする。表示された金額は、この薄汚れた事務所を一年以上維持できる破格の額だった。カイは微塵も表情を変えず、静かに尋ねた。
「誰の、どんな記憶だ」
「『リナ』という名の女の記憶だ。雨の日の公園で、誰かを待っている。それだけの、断片的な記憶」
カイは無言で眉をひそめた。義眼が即座に『リナ』という名の個体を都市の公式データベースで検索する。数秒後、彼の網膜には『該当者ゼロ』という無慈悲なテキストが浮かび上がった。ゴースト。この都市に、その女の存在を示す記録は一切ない。
「そんな女は存在しない」
「だからお前に頼んでいる」訪問者の声に、わずかな苛立ちの震えが混じった。「存在しないはずの女の、存在するはずのない記憶。見つけられるか?」
それは、明確な矛盾を孕んだ危険な依頼だった。都市の電子の裏路地、違法な記憶のブラックマーケットを漁るか、あるいは巨大企業の堅牢なデータバンクの壁を破るか。いずれにせよ、真っ当な仕事ではなかった。だが、カイの心の奥底で、長い間錆び付いていた歯車が微かに軋む音がした。雨の日の公園。リナ。その言葉の響きが、彼の脳裏に焼き付いたまま曖昧な、過去の断片を微かに揺さぶった。
カイは無言でクレジットチップに手を伸ばした。冷たい金属の感触が、指先から彼の意識へと直接流れ込んでくるようだった。
「記憶は魂の錆だ」訪問者はゆっくりと立ち上がりながら言った。「磨くこともできる。削り落とすこともできる。……お前なら、この言葉の意味が分かるはずだ」
重いドアが閉まり、訪問者の気配が完全に消えた。部屋には再び、雨音と、それより重い静寂だけが残された。カイはしばらくの間、クレジットチップを握りしめたまま、微動だにしなかった。やがて彼はデスクの古びた端末を起動し、安全な暗号化回線を開く。接続先は、一つしかない。
『アキラ、起きているか。面白い仕事がある』
送信ボタンを押したカイのサイバネティック義眼が、窓の外を流れるネオンの光を捉え、鈍い青の軌跡を描いた。雨は、まだ降り続いていた。
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