第14話 また明日
せりあがってくるものに、背が震える。みみずがごとき伸縮をしているようで、なかのものを吐き出さんと体が動く。
「はあ、はあ」
顔を上げ、壁に寄りかかる。
はっとして、トイレットペーパーで口をぬぐう。気にしたものか。
自分の体にどういう変化が起こり、どうなっているのか。容易に想像はついた。前世でも同じ末路にいたろうとしたとき、死んだのだから。遅かれ早かれだった。なら轢かれても死んでも同じこと。
「言葉あたりの連想が飽和してきた……うおえ」
意識には、あつかえる言葉の許容量というものがある。頭が人生でもっとも元気になるピークの時期にさしかかり、認識の限界にいきあたった。
似たものをあげるとすれば、感覚過剰や識覚の過活性と呼ばれるものらしい。
吐き気や心の落ち込みはその証拠のようなもので、マシな段階だった。
ひとしきり落ち着いてくると、用事を思い出した。
「はあ、会長のとこ。携帯預けたままだった」
トイレから出て廊下をゆく。人はおらず、たまに教師とすれ違うのみ。昼過ぎで終業というのは、やはり生徒の実家、その家業への配慮があるのだろう。
生徒会室の扉をノックし、入る。
「元浦くん、返事を待ってください」
「そうでしたね。申し訳ありません」
「おお、おっひさー。んう? 顔色悪いよ」
ソファに腰掛けつつ目元をもんだ。
鳥羽会長は相変わらずデスクにむかい、良張先輩が応対してくれる。
「ただの発作です。それで、鳥羽会長がわたしたら借りた携帯、返してくれますか?」
落としたっきり、回収されて戻ってこない携帯。わざわざ生徒会にまで足を運ぶ羽目になろうとは。
いったいなんの嫌がらせだ。
「いいですよ。良張さん」
「はいはい」
良張先輩がテーブルに置き、それを手に取る。
開いていじられてないか、ひととおり確認した。閉じて、深々嘆息する。
「ほんと、なんでこれまで渡さなかったんですか、会長」
「きみは、呼び出してもこないじゃないですか」
「来る方がおかしいですよ。週一でなんて」
「まあ、頼むこともないし。お昼一緒にするくらいだものね」
お茶を淹れてくれる良張先輩に会釈し、カップを傾ける。煎じ茶、しかもかなり苦くしてる。良張先輩までなんの不満だよ。
ニコニコしてるからこっち側だと思ってたのに。
「このところは呼ばれても来てくれなくなっちゃったから」
「臨時の生徒会員なんてものを募集すればいいじゃないですか。二人だけが寂しいなら」
「それでもまわせちゃうので、なかなか手が出ないんですよ」
銀の髪先をいじりつつ、目配せしてくる。この人、無駄に仕事はやいからなあ。書記の良張先輩ひとりでも問題ないということか。
鳥羽会長は立ち上がり、良張先輩の隣に腰を下ろした。
「それにい、お花見のとき以来、良張さんが増員の話しても首を縦に振らないんですよお」
わざとらしすぎる間延び。ねばつく声音に後ずさりたくなるも、後ろには背もたれがある。会長が前のめりに迫ってくるさまは恐ろしかった。
良張先輩は当然のごとくお茶を飲んで静観っある。わたしが一体なにしたっていうのよ。
「知りませんよ。会長の仕事が速すぎるので必要ないと思われたのでは」
頭を押し返して咳払いする。
そもそも仕事そのものが少ないのだから、人員もいらないのだろうが。言わぬが花だ。
「良張さんもそう言って聞かないんですけど、ねえ」
「はあ、とばっち嫌われるよ? そんなことより、元浦くんやっぱり覇気がないよ。どうしたの」
その心遣いで分かった。あの煎じ茶で反応見分けてたな。
助かったところはあるが、しかし素直に言う気もなかった。
「なんげー生理みたいなもんです。人生で何回かくる」
「は、はあ」
「へえ、じゃあ元浦くん。いま困ってるんじゃないですか? ほら、授業とかに集中できなかったりして」
「もう、とばっち! 元浦くん。それって具体的にどんなものなの? あきらかにほっとける感じじゃないし」
会長と良張さんのこの差よ。
鈍錆びた頭でもわかる。良張さんの方が安全である。ああ、今日も変わらず玉櫛がよく似合ってますよ。
「大丈夫です。泡吹いたり情緒不安定にもなってないなら、軽く済んでますから」
「いい病院紹介しましょうか? もちろん費用はこっちもちで」
「とばっち、ほんとに黙って」
良張先輩はうかがうように聞いてきた。
「……死なないよね」
流行病でぽっくりということがめずらしくないご時世である。心の病なら突然ということも十分あり得る。
神社のご実家なら、ある日を境に、常連さんが来なくなることもあるのだろう。
「わかりません。わたしの努力次第ですから」
「なら私の家で療養しませんか? その手の不調に理解ある方々ばかりですから」
もはや強気を超えてたくましいまである。会長がわたしにこだるのは、使い道が多すぎるからと、良張先輩に聞いたことがある。
使い道の多さで、コレクターのような変人具合を発揮されても、うすら寒いだけだが。
薄く笑ってみせる。それでも視線は落としたまま、上げられない。
「お気遣いありがとうございます。ですが結構です。返せるものがありませんから」
「……良張さん。元浦くんはなにを言ってるんですかね。命は金に変えられないというのに」
「いい加減彼に障るからやめてよ。はあ、信じていいの? 元浦くん」
「死んでも、わたしの保険はあります」
「そうじゃなくてさ、元に戻るの?」
表情こそ若干眉をひそめただけ。良張先輩もポーカーフェイスを心がけるようになったらしい。若人の成長ははやいな。
良張先輩の問いには断言できなかった。それが答えだった。
「……そっか」
「だから、ね? 安心して治せる我が家に来てくださいよ。これも“よしみ”ですから」
会長だけ別の空気でも吸ってるのか。そう思わせてくる。
けれど反論も口にできない。頭のてっぺんに打ち当たり、言葉にしようとしてもできなくなる。せいぜい首を振ることだけ。
「その、お誘いはお断りしました。では、用も済んだのでこれで」
腰をあげようとして戻される。肩をつかんでいたのは会長だった。笑い? なにがそんなにうれしいんだ。
反応できないまま黙っていると、背後に回ってきた。
「じゃあすこし休みましょう。……いまだけは」
横に倒され、目を丸くする良張先輩と目が合う。
「とばっち、なにを」
「だって話聞ける状態じゃなくなりましたし。これは正当な看護行為ですよ? 錯乱者を公共空間に放たないという」
さく、らん? わたしはまだ正常の範囲内。なにをされても反応が遅れ、会話もちょっと怪しくなった程度。
起きあがろうとしたら、頭を押さえつけられる。力がこもってないというのに、抵抗できない。
心の底でひどい衝撃があった。
良張先輩が手を伸ばしかけて止めた。なぜ、なんで。
「はっきりと、わかりました。どうしてかはわからないけど、元浦くん。言語処理、認識許容量、どっちもオーバーフローしてほとんど機能してませんよね? 安心してください、お宅には連絡しておきます」
「わたしは正常です。会長は誤認してます」
「そんなに眼球を震わせて、説得力ないですよ」
楽しそう、声音だけが鮮烈に焼きついてくる。
良張先輩は目をそらし、口を結んでいた。
「とばっちに任せるのは……でも、一人にするのも」
「良張さんには自宅に招くなんて発想、できないし実際賄えるほどの蓄えもありませんからね。おとなしく私に任せてください」
体を任せたくない。それはなぜだったか。
後からどんな要求をされても断れないから。自分以外に、自分の体を管理されるのが、不安で仕方ないから。よし、まだしっかり頭がつかえる。
それでも頭のそこかしこがちりちりする感覚にさいなまれる。
「では携帯を拝借。熱中症になられても困るのでボタンも失礼しますね」
体こそ動かせないが、指先ほどは動かせるまでになってきた。
「あ、元浦さんのお宅でよろしかったでしょうか。はい、私元浦くんの通っている校の生徒会長で、鳥羽ニアと申します。今日は元浦くんが病にかかったようで、ご連絡させていただいた次第です」
空いた手で胸板をさすられる。睨みつけるも、恍惚と笑むばかり。器用にも声色は変わらない。
「はい、ですのでしばらく元浦くんを我が家で療養させた方がよろしいかと。いえ、お気になさらず。大事な後輩が困っているんですから、もちつもたれつですよ!」
「……とばっち」
非難さえこもった良張先輩の声がけもむなしく、鳥羽会長は無視した。
会長が腕をおろし、銀の幕を垂らしてくる。陰になってわかった。翠がかった瞳の対がいっそ嗜虐的だ。
——————————————————————
国はいい。安定させられる方法があり、それを可能にする人材を、適宜配置すればいいのだから。
けれどその男の子は、私の誘いを断った。私から離れようとした。だからばちが当たったとは言わない。
しかし心に起因するなにかがあり、体が著しく弱っていたのは確かだ。車に、そして我が屋敷に運び込むのは容易だった。
大義名分があれば何人も表立って反発しにくいものだ。あの相良ひよりの顔ときたら、今でも笑える。女の嫉妬とはかくも恐ろしいものか、正面玄関ですれ違った顔には、腹底だってひえきったものだ。
でもその男の子も、腕のなかで気絶に近い形で気を失っている。ここでなにをしても問題にはならない。
再度自分に言い聞かせる。
強引だったとはいえ、男子を、それも自室に連れ込んだことに変わりない。一定の呼吸も、固い肉感も、なにもかも新鮮極まる。鮮烈なまでに存在感があった。
「う〜ん、やはり心ゆく男の子を抱けるとは至福ですね」
それも、どこに置いても正常に機能する人材なら、なおさら愛おしくもなる。大事にしようとしなければ、いつのまにか壊れてしまいそうで、なにより私をカバーできる鏡として優秀すぎる。
どうしたものか。
このままやってしまえば、この子はきっと心に傷を負う。それはそれでそそられる。私のお願いだって聞いてしまうだろう。あの危機感の強さは、内側に入られてしまえば対処できないから。
私に非情になりきれず、でも排除もできず、葛藤するそばに言葉をかけるなら、どんなことをささやいてあげようか。愛か、希求か、安全か、安寧か。
この子はなにを求めていたのだろう。言葉の切れ味が鈍ったのは残念だったが、それだけ余地が生まれた。元浦トシ。この子がなにを願い、なにを好み、なにを忌避してきたのか。
髪を撫で、ざらついたほおを包む。
「いまあなたに触れられますよ、元浦くん……」
それだけで幸せが爆発する。体はもう私のもの。あとは、代価を払えば心だって。
慇懃無礼で鉄仮面、隙のひとつもないこの子のすべてを占有できたなら、きっとどんな万策にも勝る“男”を得たことになる。ああ、婚約者候補にも頭を悩ませずにすむなんて、元浦くんはやっぱり優しい。
育ちきった谷間に頭を埋める。足まで絡めれば、一体のような感に入る。満たされる感覚など、ここ数年なかった。
ただ国を憂うだけの人生だと自負してきた。
「……なのにさあ、きみは」
女に媚びることもなく、ひたすらに相手を射抜く言葉の数々。なにを語るときでも決して芯がぶれない。
それはあるべき像がはっきりと見えているから。
対に欲しくなるのは当然じゃない。諦めてたのに、考えないようにしてたのに。いざ目の前にしてしまえば、手を伸ばしてしまう。
罪深い、ほんとうに罪深いよ、元浦くん。
抱きすくめたまま、欲に身を任せてしまいそうになる。けれどだめ。この子が求めてきたときが機だ。
ノックの音がして、使用人の子の声がした。
「ニア様、お客様です」
「だれ?」
おっと、声音がいらついてしまった。
するとしばらくして、返答がきた。
「元浦藍、と名乗っておられます。元浦トシ様の実妹だそうです」
「はあ、そう。もう……」
校で私の住所でも調べてきたのかもしれない。それ以外の手段は思いつかない。
しかし腕の中の男の子を離したくはなかった。いっときとはいえ、部屋を空けるのも心配だ。使用人の子たちは今年はいってきたばかりの庶民上がり。若く、かわいげがあるが盛りだ。
十四、五は特に自制も効きにくい。
困った。思わずこむかみに鼻をうずめ、頬をついばむ。
目に見えた跡を残せないのは残念だ。
「わかりました。応接間にお通しして。着替えでもしてると言っておいて」
「承知しました」
元浦藍、この子の妹だけあって所作ひとつで圧を感じさせるほどの気品をもつ。聞くに誉な国母がごとき冷静さと抱擁の気がある。
あれが私の上に立つのなら、安心して任せられるだろうが、時期が悪い。
ベットからおりて髪をすく。裾を揃えれば出なければいけなくなる。
億劫だ。あの子、兄さまラヴだろうし。元浦くん以上に容赦ないのよねえ。
そうして自室に鍵をかけ、応接間に向かう。
相変わらず華奢な背姿だった。
「失礼します。お久しぶりですね」
「はい、先々月以来でしょうか、鳥羽会長」
思ったより落ち着いていた。焦る様子もなく、眠たげにまなこをおろしている。気抜けしているように思えるが、姿勢から服ののりまで、抜け目ない。
元浦家は一般の会社勤めや工場の作業員が職場と聞く。どこにこんな礼節の格があるのだろう。
元浦くんが首を傾げるのもわかる。
「ええ、とりあえずお茶でもどうです? トシくんは苦味の強い麦茶が好みと言って、私と意気投合したものです」
「いただきます。兄さんは基本的に舌が弱いので苦味でもないと味わい深い経験ができないのでしょうね」
茶を淹れれば、先に飲む。ついで元浦さんが。
それは喉越しは良いが、好みの分かれる味だ。なんということのないようにちびちび口をつける元浦さんは、気にした様子はなかった。
「……兄さんの論考があります」
首を傾げる。取引材料だろうか。なら考えないわけにはいかない。
「前にも、今回のように肉体まで弱ったことがあり、そのとき記された国体の必然的な崩壊様態をまとめた資料です」
差し出されたのはノート一冊。革鞄といい、前もってこの手順を踏むことを想定したような手際の良さ。
それより気になることがあった。
「この日本の、崩壊様態の予測資料とうかがっても?」
「はい、間違いありません。その代わり兄さんの身柄はわたしが回収します。法的措置をとる必要がないことを祈ります」
機械的ですらある言葉選びや抑揚のなさ。
事務的な手続きということか。この子にとっては。断る余地もないし、受けざるを得ないのは明白。
じっとノートを見下ろす。
「ひとつ、お聞きしても」
「なんなりと。私は兄さんを回収できれば良いので」
「なぜあのような状態に陥ったんですか」
「簡単です。本来なら個人が扱えないほど膨大な社会構造を認識したからです。瞬間的な全体認識とでも言えばよろしいでしょうか」
カップを手に、中身を揺らす元浦さんは語る。
「この部屋を見てる。この屋敷全体に神経を張り巡らせて知覚している。このような差です。まあそれだけなら、まだ保つはずだったのですが。だれかが兄さんに肉体接触して負担をかけたり、コミュニケーションで攻撃的な態度を取ったりしたんでしょうね。家に帰ってくるまでもちませんでしたから」
透かしみていたように、朗々と紡ぐ。
この迷いのない推察は元浦くんに似ていた。ここで積極的に、なにかしら働きかけるのはまずい。聞き流さなきゃ。
「へえ、それは不幸な偶然ですね」
「ええ、偶然です。前は考案に行き詰まっていた時期に、父母たちの乱行を目にして何週間か寝込みました。いわく、なんのために頭を絞りきって構造を書いてるのかな。そこまで負担をかけられないと倒れることはないんです」
なるほど、私が介入できたのはほとんど幸運だったと。加えてその要因が私ではないかと探りを。徹底的だな、元浦さんは。
ノートを手に取り、横に滑らせる。
「私は倒れたところを保護しただけですので」
「その前にどのようなやりとりをされていたのでしょう。再発防止に努めなければいけない側面上、当事者からお話を聞くのがセオリーというものです」
ああ、これ切れておられる。私より頭ひとつ小さく、顔立ちだって幼なげなのに、なんなのこの迫力。追求が緩まないってはっきりわかるのだけど。
まあ、だからって元浦くんを手に入れられたんだから、釣り合いはとれてる。
「では、なぜこのノートを」
「仮にも初期対応してくださった鳥羽会長への心ばかりのお礼です。知恵は使い道を創造できなければ砂つぶと同じですから、期待しています。兄さんはもとい、私の手にあっても運用する気がないので、適材適所ということで」
「……うまく活用できれば、の話でしょうに。対策を講じる面では有用だけど」
「それに伴う関係各所の現場からの感謝の念には絶えないものがありましょう。見えない人望を積み上げるのも、鳥羽会長のような指導者が必要とする功績なのでしょう」
それで私から元浦くんにさく意識を散らそうとしているのだから、実益の取り方がうまいことこの上ない。未来を使った益による誘導、大概の人間が苦手にするものを、こうも自然にポンと出してくるとは。
無視できない価値があるのは確かだ。
それが国内に起因し、統治体制を崩壊させる要因が記された書なら、なおさらに。もとより元浦くんは返さなければいけない。看護代にしては過ぎてるけど、はっきりプラスと断言できる。
こんなとこでも反対する気を削ぐか、元浦さん。恐ろしい子。
「当時状況をお聞きしようと思いましたが、その様子だと諦めた方がいいですね。兄さんのもとに案内してください」
「……おぶって帰るつもりですか?」
「起こしますよ」
思ったより常識的な回答に、肩の力が抜ける。私がひとりで空回ったのかな。積み上げた文脈を絶たれたような。
そんな裏切りにあった感覚だった。歯切れの悪い、言葉にしにくいまま、部屋まで先導する。
流れも要点も、主導権すら掌握された。
攻め筋を見出せなかったのは、私の未熟ゆえだろうか。扉を開けると、元浦くんはいまだ寝ていた。
元浦さんを見やると、跳ね毛を必死に抑えていた。
存外少女らしく、口元が緩む。
「ひとつ、ついでにお教えしておきます。兄さんは単純で正直な人が好みです。会話の負担が軽いと、安心して話せるそうですよ」
「きみは、ずっと元浦くん一筋なんですね」
「当たり前です。画家が四六時中絵のことを考えるように、警備員が日頃から防犯意識を欠かさないように、国会議員が習慣的に、自分の理念を復唱するように。一度たりとも兄さんのことを忘れたことはありません」
すらすらと例えが口を出る。端的で実直、一言でいえば好ましい態度だった。言葉通りに受けとるなら、きっとそれは敬服に値するものだ。
私なら無理だ。ひとりを、いっときも欠かさず想い続けるなど。
その点では、元浦くんと似ているのかもしれない。そしてこの子は、違うのだろう。
端正な横顔、幼なさも残り、隙と思われるであろう眠たげな雰囲気。しかしこの子の言葉からは積年の、言葉の研ぎが感ぜられる。
ここまで明確に見えと実が結びつかないのもめずらしい。
「兄さん、兄さん」
体をさすっている。それで起きるのかなど、やったことのない私にはわからない。そばの棚に寄りかかりつつ待っていると、埒があかないと思ったらしい。
元浦さんは小さく息をついた。
些細なことだ。だからこそ、異常に人間らしく見えてしまう。
「起きなかったら、兄さんは私のものになるんだよ? いいんだよね」
聞き捨てならないセリフに組んでいた腕をとくも、杞憂に終わった。
「それはだめ。まだ……」
元浦さんの腕を掴む、骨ばった手があった。
「ここは」
「鳥羽会長の自宅。兄さんは昼から夕刻にかけてここで寝かされてたと推定する。体に異常なし。やたら濃い金木犀の香りがついてること以外、目立った点はなし」
「そう」
体を起こしたのち、キョロキョロと見回して目が合った。元浦さんは、そんな彼のそばに控えて目を閉じていた。
「とりあえず、ありがとうございます」
「いえ、起き上がれる程度には回復したようで」
「巡り合わせが悪かっただけです。今後、このようなことはありませんのでご安心ください」
「……それが望ましいですね」
「ええ」
っち、もっと調べを進めれば誘発できると思ったのに。
忘れていたが、元浦さんだけではないのだ。元浦トシというこの子の方が、本来はるかに堅牢で秘密主義だった。
はあ、欲に浸りすぎて鈍ってた。
玄関まで送り、二人が靴を履くのを待つ。日差しに縁取られて、二人の髪が柴がかる。並ぶとはっきり兄妹なのだと思い知らされた。
元浦さんが前に出てくる。
ずいぶんと警戒されているらしい。
「じゃあ、また明日」
「会長、別れはさよならかじゃあねだけにした方がいいですよ。次を期待しない方が多く、望まれないこともあるので」
「そう? でも私はまた会いたいから“また明日”」
「そうですか」
「失礼します」
頭を下げ、踵をかえす元浦兄妹。
わびしいが、それだけ良く思われないことをした自覚はある。無視した方が楽だとしても、共有した時間を軽んじるのは好きじゃない。
堀のむこうに消えるまで手を振り、降ろす。
短い時間だった。
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